2013年01月22日

ジョージ・ハーバート・ミードの著書より

『社会的自我』(船津衛、徳川直人 編訳)

すべての自己意識的行為を伴う観察するもの(observer)は、…それ自体の特性(propria persona)において、自己意識的行為を生み出すような実際上の「主我」ではない。むしろ、それは自分自身の行為に対してなされる反応なのである。われわれが他者に対して与える社会的刺激にもとづいて起こるこの反応と、行為の主体と考えられるものとを混同してしまうことが、自我は、働きかけ、働きかけられるものとして、それ自体を直接的に意識できるものだとする考え方の心理学的根拠となっている。

他者に意識的に対峙する自我は、…自分が話すことを自分で聞き、自分がそれに対して答えるという事実、まさにこの事実によって、自分自身にとってひとつの対象、ひとりの他者となる。それ故、内省のメカニズムは、人が自分に対して必然的にとる社会的態度のうちに存することになる。そして、思考のメカニズムは、思考が社会的相互作用において用いられるシンボルを用いるかぎり、内的会話にほかならないものとなる。

自我は、行為において、個体が経験における自分自身の社会的対象となったときに、現われてくるようになる。このことは、個体が他の個体の用いる態度を取得するか、またはそのジェスチュアを用いるかして、それに対して自分自身反応するか、あるいは反応しようとするときに生じてくることである。


『意味のあるシンボルについての行動主義的説明』(船津衛、徳川直人 編訳)

物理的究極粒子からなる機械論的世界がどのようなものであれ、経験において何が対象であるのかを決める境界線は、個々の生物個体の態度と行動によって引かれるものである。生物個体と環境との両方を含むような経験がなければ、そのような対象は存在しないことになる。

対象が主観的とされるのは、それが他者のかかわるような経験からはずされてしまうからではない。それは、行為の発達において自我が生じたときに、人間がそれを自我と結びつけることによって、主観的となるのである。

マインドは、…個人に限定された領域でもなく、ましてや脳のなかに位置づけられたものでもない。有意味性というものは、個人との関係における事物に属している。それは個人の内部に閉じ込められた心的な過程のなかには位置づけられないのである。


『自我の発生と社会的コントロール』(船津衛、徳川直人 編訳)

…自我の発達は社会集団のなかにおいてのみ生じるということである。なぜなら、自我は、物的対象としての有機体が他の物的対象との関係においてのみ存在するように、他者との関係においてのみ存在するからである。

いわゆる「見かけ上の現在」(specious present)においてさえ、継起(succession)があり、過去と未来があるような時間的推移(passage)というものが存在している。したがって、見かけ上の現在は、行為の観点からすれば、過去と未来の両方が含まれているセクションにほかならないものとなる。この自然的時間推移を重要視するならば、知覚の対象は行為の現存する未来(existent future of act)と考えられる。

もし自分が自分自身であろうとするならば、他者にならなければならない。
posted by baucafe at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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