2013年01月23日

河村次郎の著書より

『脳と精神の哲学』

…脳還元主義の根底に潜んでいるのが、数百年来西洋の科学を支配してきたデカルト的心身二元論の「哲学」なのである。つまり、神経科学の研究方法と実証データが、いくら精緻さを極めていっても、その根底に存する「哲学」が変化しない限り、本当の意味での根源的真理には到達できないのである。


『心の哲学への誘い』

多くの人は「心」という言葉を聞くと、すぐに主観的で内面的な現象を思い浮かべるが、「心」は実は行動を介して生活世界という外部に延び広がったものなのである。

「私である」という感覚は、他者が覗き込みえない私秘的な内面性の奥底から発生するものではなく、身体的触れ合いや言語的コミュニケーションを通した外面的な社会的行動からの「折り返し」として、各人の心の内部に生じるのである。

意識は、よく不可逆の流れに喩えられる。つまり、それは時間的現象である。しかし意識には広がりもあり、それは対象が現れるフィールドを形成する。すなわち、意識は空間的性質ももっている。すると、意識は時間と空間によって構成された「対象現出のための場」だということになる。

「私」という観念は、「身体を生きる」という感覚と深く結びついている。そしてそれは、他者の行為を模倣し、そこから自己の社会的役割を自覚する、という社会的自己観念の形成とも深く関係している。要するに、自己意識の芽生えは他者との交流における身体図式の整備と諸感覚の統一に基づいているのである。

「私であるとはどのようなことか」という問いは、「私は身体である」という視点を十分取り入れることなしに答えることはできない。そしてその視点は、幼児期の自他未分の癒合的身体経験に淵源し、感覚の原初的層を通して自然の根源的働きと生命的接点をもっている。その意味で、「私が自分の生を生きている」という実感は、他者と自然的生命を共有しているという脱自的感触から反照的に生じたものだ、と言えるのである。

我々は、対象を知覚する際、注意と志向性の働きを介して身体の姿勢や位置を自由に変えるが、これによって身体的パースペクティヴが形成される。そして、この身体的動きが視覚の能動的側面を形成するのである。それゆえ、我々は目のみによってではなく、目を含んだ「身体全体」で対象を見ていることになる。

「我思う、ゆえに我あり」などという認識は、存在論的に極めてレベルの低いものであり、生ける自己組織的自然からの逸脱である。思考作用は、我々の内なる自然的生命から生まれてくるものであり、自然から切り離された精神的実体の能作などではない。
posted by baucafe at 01:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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