2013年01月24日

ル・クレジオ著/豊崎光一訳『物質的恍惚』より

ぼくは死んではいなかった。ぼくは生きてはいなかった。ぼくは他者たちの躰の中にしか存在していず、他者たちの力によってしか力をふるえなかった。運命はぼくの運命ではなかった。極微な動揺が時の流れを走って、実質であるものは種々さまざまな道を辿って揺れていた。どの瞬間に、ドラマはぼくにとって切って落とされていたのか? どの男ないし女の躰の中、どの植物の中、どの岩の塊の中で、ぼくはぼくの顔に向かう旅を始めていたのか?


ぼくは隠されていた。他の形、他の生命の数々が余すところなくぼくを蔽いつくしており、ぼくは存在する必要がなかった。かくも充実し、かくも張りつめたこの空間の中には、ぼくのための場所はなかった。すべてが充満していた。何ものもつけ加えることなどできなかったろう。


創造の深淵から出てきた結果がいかなるものであれ、それらには原因がなかった。原因がありえなかった。偶然というものの無限に微小な運動によって出現していたものは、一つの道を辿ってはいなかった。運命とは遅延して作用する幻影だった。突発するところのものは一つの現前の認知であり、それに一つの起源を与えることも一つの目的を与えることもできなかった。これがある、ただもうそれだけのことだった。


つねにこの光がすでにあったのだ。つねにこのエネルギーがすでにあったのだ。いつも変わらず、つねにこの運動ないしこの不動さが、この懐胎が、すでにあった。常に無限の猛烈さが顕示されており、全的な現前があった。なぜ起源などが? なぜ終末などが? 存在の場所は境界がなく、裂け目がなく、そしてもろもろの行為の流れは、さながら円環のように、かつて始まるのをやめたことがなく、終わるのを始めたことがなかった。


ぼくぬきで出現したものは、出現していた。ぼくぬきで石だったもの、ぼくぬきで空気、ぼくぬきで稲妻、ぼくぬきで両棲類だったものは。太陽ぬき、大地ぬきで在ったもの、光ぬきで在ったもの、そうしたもの全ては非物質的な拡がりの中にはなかった。そうしたものは現前していた、言い表しがたく現前していた。それぞれの物がみずからのうちにそれなりの無限を蔵している。


かつてぼくは沈黙に属していた。ぼくは表現されえないすべてのものと混じり合い、他者たちの名と躰によって隠されていた。ぼくは不可能さのふところに抱かれていた、あんなにもたくさんの事物が可能であるというのに。ぼくの言葉、ぼくの言語には価値がなかった。ぼくの思考、ぼくの意識には通用性がなかった。ぼくはぼくの父とぼくの母の言葉で、ぼくを孕みぼくを創った者たちの単語で話した。ぼくはあちこちにいた、あんなにもたくさんの男、たくさんの女の躰の中に。


だが、この世界は過去のものではない。この現実は、ぼくが生まれていなかったとき通用していた現実なのだ。この沈黙は遠いものではない。この空虚は無縁のものではない。ぼくがそこでは不可能だった大地は、なおも続いている。それこそは、ぼくが手で触れているものであり、そして突如としてゼロから現出したこの物質はぼくの躰とぼくの精神とを形作っている材料なのだ。


ぼくのまわり、いたるところに、光の脆い眺めの中に、ぼくという人間の世界の微小な眺めの中に、この巨人=世界の怖るべき重たさが見てとれ、この世界はぼくぬきで存在していた。


数々のガラスの器の中、鏡の中、不透明な鋳物の中、コンクリートと大理石との塊の中心に、それはいて、いるのをやめたことはただの一度もなかったのだ。それはぼくたちの定かでない生まれにまつわるもの、空虚と夜との僭主で、生命の浮ついた煌めきの中にうずくまり、その影を見せている…これほどまでの不感無覚、これほどまでの常軌を逸した平静さはかき消されない。


開花を行わせる運動はかつて終わったことがなく、完了されたことがない。そこに在るものがそこに在るのは、その中心に、その行為の中心に、創生させる眠りというあの魔術的な効能があるからなのだ。存在するものすべては、それを夢みる空虚にとらわれていまだに眠っている―狭小な、広大な空虚、いまだ何びとも完全には住まっていない異様な住居だ。


何ものも、ぼくにとっては言語以外の何ものもない。それが唯一の問題であり、あるいはむしろ、唯一の現実である。すべてがその中では協和している。ぼくはぼくの国語の中に生き、その国語こそぼくを構築するものである。


そう、自分自身に向かって身をかがめねばならぬ、讃嘆と、敬意と、苦悩をこめて。われわれが宿している大いなるもの、美しいもののすべては、われわれの皮膚の中、われわれの靭帯の中、われわれの神経繊維の中にある。どこから来るのか、生きている世界にわれわれをつなぎとめているこの大いなる流入は? われわれを保護し、われわれを守ってくれるこの城壁の起源は何であり、その唯一無二の本性は何なのか? われわれが諸器官の中に宿しているこれらの諸特性の特性、これら諸効能の効能、これら諸生命の生命は、いったい何なのか?


人生の十分の九、それをわれわれは無意識のうちに生きている。われわれが意識しているものは、乱されてよくわかれぬものになって届いてくる束の間の反映のような物、こだまのようなものだけだ。そしてこのこだまにもとづいて、われわれは数々のイデオロギーや、概念や、体系を組み立てているのだ! われわれから遠いところで、われわれの躰は生き、その秘かな闘いを遂行し、死に抗してもがいていて、しかもわれわれはそれについて何も知らないでいるのである。


ぼくにはますます、分析というものが取るに足らぬように思えてくる。分析は接近する役に立たない。知る役に立たない。それは一つの体系にすぎず、人間が垣間見た真理の一小面にすぎない。知るためには、それなしですますことはできまいけれど、それでも、知るためには、それを乗り越えねばならぬ。


ぼくの躰を通じて世界への道をふたたび見出す方法が、あるにちがいないのだ。ぼくが意識していないような、ぼくの躰の一部は、死んでいるのだろうか? そんなことはない。その部分はその外的生命をもって生きているのだ。それは生きている。いったいどうすればいいというのか、その部分にまで達するため、そしてそれを通じて世界に達するためには、しかもその際、何がなんでもぼくをぼくにしたがる、ぼくの思考という番犬の目を覚まさないようにするには?


すべてが場所を移し、すべてが動き、相互浸透し、変えられてゆく、だがすべてが存在し、すべてが明白だ。死が、人間であるのをやめることならば、世界のこの眺めすべては死の眺めだ。現実の、現前する、有効な死の、言葉につくせぬ、猛烈な、精確な死の、非のうちどころがなく、還元できず、分離できない死の眺め。何百万の、何百万の無限倍の、見つめている眼のヴィジョンに、それらの眼が写らないわれわれの眼差を加えたものである死の眺めだ。


言語、感情、考えなど、ぼくが他人たちから受けとりはしたが自分のものとして受けいれていたもの、ぼくが生きる手助けになってきたもの、そうしたものすべては、それでは幻影にすぎなかったのか? そうしたものすべては幻影にすぎなかったのか? それらは世界におけるぼくという人間の生命の閃光の数々であり、そうしたものすべては面倒なんか起こさずに消え失せてかまわぬものだ。


ぼくが死んでしまうとき、ぼくの知り合いだったあれら物体はぼくを憎むのをやめるだろう。ぼくの生命の火がぼくのうちで消えてしまうとき、ぼくに与えられていたあの統一をぼくがついに四散させてしまうとき、渦動の中心はぼくとはべつのものとなり、世界はみずからの存在に還るだろう。諾と否との対立、騒擾、迅速な運動、抑圧などの数々はもはや通用をやめるだろう。


自己であることのあまり、狭いドラマの中に自己であることのあまり、この男が突然、自分の牢獄の閾を越えて、世界全体の中に生きることはありうる。自分の眼でものを見てきた彼は、他人たちの眼で、そして物体の眼でものを見ることになろう。自分の住処を隅々にいたるまで知ってきた彼は、もっとずっと広大な住処を認め、幾百万もの生命とともに生きることになろう。個別なものを通して、彼はたぶん普遍的なものに触れることになろう。しかも、実際に、この世界の、その形の、この時の顕現においてそれに触れることになろう。かくして、それに至るまでは最小の細片の中にいたと思われる者、それを完全に愛したと思われる者は、それをふたたび見出し、それを全体として、そして永久に、認めることになろう。


…それがやって来るのは、いずれにせよ、生命がその作業を終えたときのことである。生命が、世界に対して闘争することを、折ふし、それとも永久に、それとも意識の絶えざる熱烈さのうちにやめて、世界の上に横たわるときのことである、生命が熟したものとなり、首尾一貫した長いものとなったときのことである、それは深い歌で、人はそれを耳にしたり自分の咽喉を使って歌うことをやめ、自分で身をもって奏でるのだ、自分の肉体で、精神で、そして手近にある物質の肉体と精神で。


ヒューマニズム的参与の大部分はおとりである―それに身を委ねる人はほんとうに他人のためにそうしているのではない、もはや自己であることやめるために、個人というものの眩暈を断ち切るためにそうしているのだ。彼にはもはや、一人ぼっちで戦いを行う力がない―自己のうちに発見した敵を前にして挫けた彼は、自己を全面的に否認し、そして集団的諸信仰の無名性に帰依するのだ。たぶん彼はこの参与のうちに、死に対する、虚無に対する即効薬を求めているのだ、けれどもそれは虚偽の薬、いかさまと幻想の薬である。


彼岸というものは、それが形而上的なものであろうと社会的なものであろうと、人間をあの連帯という状況に引き戻し、この状況は一つの安寧なのである。一人ぼっちでいて、何も知らない、そんなことが幸福ではありえなかった。そんなことは、あらゆる不幸のうちでもいちばん密接な、いちばん絶え間ない不幸であるほかなかった。イデオロギーへの隷属の大きな理由がそこにある―そうした隷属は到達ではなくて、一つの後退、人間の集塊への自己放棄なのである。参与の底にある、感情の寛さというものは、しばしば二重の顔を持っている―理念において寛度、そして自己自身に対してはみみっちいのだ。


何一つ、何一つとして解決されるためしはない。思考のめくるめく運動において、終わりはなく、始まりはない。解答はない、なぜなら問題などありはしないのは明らかだからだ。何一つとして提示されていない。宇宙には鍵はない、理由はない。認識に提供されている可能性といっては、連鎖の可能性だけである。そうした可能性は宇宙を目にとめる力を人間に与えるのであり、宇宙を理解する力は与えない。
posted by baucafe at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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