指先が何かに触れます。それがどんなものか、あるいは何かという認識はその時点ではまだなく、指先に何かが触れた感覚(表在感覚/体性感覚)、手指の関節に受けるわずかな圧迫感(深部感覚/体性感覚)だけを情報として受け取っています。これが「感覚」している状態です。この状態では対象がそれとしてはまだ現れておらず、それを捉える「私」も立ち上がってはいません。
西田幾多郎は『善の研究』の本文冒頭で以下のように述べています。
「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断する加わらない前をいうのである」
以上は「純粋経験」の説明として述べられた文章ですが、そのまま「感覚」の説明にもなっています。またこの状態について西田は、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」と述べています。
【知覚、認知について】
知覚においては対象がそれ(その形、大きさ、状態)として現れ始めます。その対象がどんな形なのか、どのくらいの大きさなのか、硬いのか、柔らかいのか、ザラザラしているのか、スベスベしているのか、などが感じ取られます。それによってその対象が何であるのかという認知が起こってきます。対象がそれとして現れ始め、同時に思考が働き、当然、「私」も立ち上がっています。
2013年01月30日
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