2013年02月03日

アンリ・ベルクソン著/中村文郎訳『時間と自由』より

あなたたちは、強度の起源を、意識の事象である純粋な質と、空間であるほかない純粋な量との間の折衷に見出すだろう。ところで、このような折衷こそ、あなたたちが外的な事物を研究するときには、何のためらいもなく破棄している当のものではないか。なぜなら、そこでは、あなたたちは力それ自体を、その存在は想定しながらも、測定可能で拡がりのあるもろもろの結果としてのみ考え、わきへ押しやってしまうからだ。


意識は、区分への止みがたい欲望に突き動かされて、実在を記号に取って代えるか、記号を通してだけ実在を見てしまう。このように屈折し、このことによって細分化した自我は、社会生活一般の要求、とりわけ言語の要求に限りなく巧みに応じるものとなっているから、意識はこの種の自我の方を好み、少しずつ根底的な自我を見失っていくのである。


或る被験者が催眠状態で受けた暗示を指定された時刻に実行するとき、彼がおこなう行為は、彼によれば、彼の意識の諸状態の先行系列によって誘導されたものだということである。しかし、これらの意識状態は本当は結果であって、原因ではない。


私たちは自分自身を直接に観察する習慣がなく、外的世界から借りてきた諸形式を通して自分を捉えるものだから、現実的持続、意識によって生きられた持続が、惰性的な諸原子の上を、それに何の変化も与えないで滑り過ぎてしまう持続と同じものだと思い込むようになる。


輪郭のはっきり決まっている言葉、人間の諸印象のうちの安定したもの、共通なもの、したがって非人格的なものを記憶に蓄えている剥き出しの言葉は、私たちの個人的な意識の微妙で捉えがたい印象を押し潰すか、あるいは少なくとも覆い隠してしまう。


感覚に対する言語の影響は一般に思われているよりも根深いものである。言語はただ単に私たちに感覚の不変性を信じ込ませるだけではなく、体験された感覚の性格についてときには欺くこともある。


私たちは本能的に自分の印象を凝固させて、それを言語で表現しようとする傾向がある。そのことから、私たちは恒常的な生成のうちにある感情そのものを、その永続的な外的対象と、特にその対象を表現する言葉と混同することになる。
posted by baucafe at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/61964126
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック