脳神経科学の進展によって、意識的・意図的な経験以前に脳神経系はすでに作動してしまっているという実験科学的事実が広汎に解明された。眼前の物体に手を伸ばそうとするとき、そう意識される以前に脳神経系はすでに作動してしまっている。すると意識でそれとして経験される以前に脳神経系は、おのずと必要な活動を行ってしまっていることになる。
…それは認識をつうじて世界を知り、いわゆる客観的世界についての認識の成立をまって、はじめて行為としての世界とのかかわりが誘導される、という認識論にとっての自明の前提である。これはほとんどありえない虚構である。ヨーロッパに発する数々の学問論は、その本性上世界を正しく知ることに力点を置いている。すなわち真偽の判定が可能であることを出発点に置いている。そして正しく知って後に、行為が誘導されるのである。こうした事態はかりにあるとしても、ごく稀なことであり、例外的な局面が一種の倒錯である。
システムの本性は、部分‐全体関係でもなく、階層的な統合でもなく、むしろそれとして作動することである。みずから作動することはたんなる運動ではない。作動はつねにプロセスのさなかにあるが、たんなるプロセスではない。作動には、同時に認知がともなっているが、認知から制御されているのではなく、また認知に誘導されるのでもない。つまりどのような意識的な意図や目標設定であっても、行為を決定するものではない。
創発的な経験は、一般規則を適用するように応用できはしない。創発の経験を習得することは、その経験のプロセスに寄り添うような自分自身の経験の形成を必要とする。
「感覚」の特性は、感覚するものと感覚されたものが分離しないことであり、音とはすでに聞かれた音であり、色とはすでに見られた色である。感覚するものと感覚されるものの分離がない。それに比べて、知覚は何かをそれとして捉えることであり、それとしてという可変項にさまざまなものが入る。それが一般に意味と呼ばれるものである。
…知ることによって行為がはじめて可能になるのではない。知ることによって動作が誘導されるのは、ロボットだけである。むしろ認知と行為は同じ一つのことのように連動している。脳神経系システムで言えば、主として前頭連合野や頭頂連合野の働きであり、脳の八割は連合野である。できるという働きは、知覚的認知の基礎にあったり、知覚から導かれたりはしない。むしろ知覚と同時に進行している。連合野の働きは、「つねに同時に」というモードで作動する。
まなざしは、ノエシス、ノエマ(意識極‐対象極)を基本としており、メルロ=ポンティはこの仕組みを限界と極の反転にまで追い込んでいる。だが触覚性の知覚は、そもそもノエシス、ノエマ型ではない。それはこの型のもとで受動性を極限的に強調したり(たとえばレヴィナス)、受動性に運動を継ぎ足すようなこと(たとえばギブソン)では、解消されない事態である。
…経験の大半は志向的意識が関与する以前に作動し、志向的意識からは何であるか判明しない状態で作動している。
方法とは、現に実行される経験の作動のごく一部を抽出したものである。そのため現実をきわめて単純化したものである。方法にしたがって経験が作動するのではなく、方法は現実の行為を方向づける統制原理でさえない。方法は現実のプロセスと同時並行する経験の手掛かりでしかなく、場合によっては経験を動かすための予期である。
…言語に写し取られた事態は、言語に内在する論理、すなわち前提‐帰結、方法‐応用展開、本体‐属性、意味するもの‐意味されるもの、意味‐理解、原理‐派生のようなカテゴリー的論理に翻訳されてしまう。この翻訳可能性が、通常理解可能性に置き換えられる。理解可能性のもっとも広い経験を哲学が提供する。だが哲学は、残念ながらこの翻訳可能性のなかにどっぷりと留まっている。そのため哲学書を理解可能性にしたがって読むのなら、いくら読んでも何もわからないという事態が起こる。
理解は、ほとんど神経症的基準のもとにある。理解すれば、経験を動かす必要はなくなる。経験の動きの外に枠を張り出す仕方がそもそも経験そのものの作動とすれ違っており、それじたい経験の傍らを通り過ぎていく。狂気とはみずからとみずから自身の経験との間に隙間がない状態のことである。本気の一歩先で本気になっていることである。これはみずから自身にとってみずからが収拾のつかない病とは異なる。狂気の状態の近くまで行ったことのない人間が、狂気について理解だけして、いったい何が行われたことになるのか。狂気の経験と狂気の理解との際限のない隔たりを埋める努力がないわけではない。それが方法である。そのため方法とはある種の必要悪であり、なくて済ますことができれば、その方がよいもののことである。
意識とは経験のプロセスのなかで出現する一つの躊躇にすぎない。意識とは躊躇の別名である。
言語は基本的には身体にとって疎遠なはずだが、言語の語られる環境内で身体行為が形成される以上、何らかの密接な関係があるはずである。
2013年02月05日
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