2013年02月07日

ウィトゲンシュタイン著/大森荘蔵訳『青色本』より

思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、〔君の言い方で〕心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味でである、ということに注意を向けてもらうだけだ。


意味を持たず、思想を持たないでは、命題は命のないがらくたである。更に、無機物的な記号をいくら加えても、命題を生かすことはできないことも明白に思える。そして人がこのことから引出す結論は、生きた命題にするために死んだ記号に加えねばならぬものは、単なる記号とは別の性質の何か非物質的なものである、ということになる。


我々が「思想が頭に浮かぶ」と言うとすれば、この句を冷静に理解したときの意味は何であろうか。私が思うにそれは、思想に〔頭の中の〕ある生理学的過程が対応しており、この対応の仕方を知っておれば生理学的過程の観察によって思想がわかる、ということであろう。だがどういう意味で、生理学的過程が思想に対応すると言えるのか、また、どういう意味で、脳の観察から思想がわかると言えるのか。


哲学者はしょっ中、言葉の意味を探究したり分析したりすることを云々している。しかし、言葉は何かいわば我々に依存しない力からその意味を附与されていて、言葉が真に意味するものを明らかにするための一種の科学的研究がありうる、というものではない。そのことを忘れないでほしい。一つの語の意味は、誰かが与えたものである。


我々が何かを言いそしてその言うことを意味するとき一体何が本当に起こっているのか、…。―自分自身に尋ねてみよう。誰かに「お目にかかれて嬉しい」と言い、またそのことを意味するとき、言葉の発声に伴って、或る意識過程、それ自身また声言葉に翻訳できる過程が進行しているだろうか、と。まず大抵はそうではあるまい。


或る句が我々に対して持つ意味は、我々がその句を使う用法によって規定される。意味とは表現の心的付随物ではないのである。したがって、哲学的議論の中で或る表現を使うのを正当化しようとして、「それで私は何かを意味していると考える」とか、「それで私が何かを意味していることは確かだ」という句を頻々と聞くが、それは我々にとっては何の正当化でもない。
posted by baucafe at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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