自然は思考と無関係に存在している。わたくしはたとえこう言明したにせよ、いかなる形而上学的宣言をも意図しているのではない。ただ、思考について語らずして、自然について考察しうるということを意味しているにすぎないのである。
思考にとって「赤」は、たんに、一定の実質にほかならないのであるが、他方、意識にとっては「赤」は、その赤の個体性の内容を含んでいるのである。意識の「赤」から、思考の「赤」への推移には、はっきりとした内容の喪失を伴うのである。すなわち、要因としての「赤」から、実質としての「赤」への推移によって、内容は失われるのである。意識から思考への推移に際して、このような内容の喪失が伴うことは、思考されたものは他人に伝達されうるが、感覚意識は他人に伝達不能であるという事実からもうなずけるであろう。
もし、感覚知覚が事実の要因としての実質の現実的位置から捨象された個体性に関する認知を含んでいるならば、感覚知覚は、疑いもなく、思考を含んでいることになる。しかし、感覚知覚が、情緒とか目的的行動を惹起させるに足るくらいの、事実の要因の感覚意識として考えられているのみで、それ以上のものを認知していないのであるならば、感覚は思考を含んではいない。
意識にとっての直接的事実とは、自然の全体的生起である。それは、感覚意識に呈示される一つの出来事としての自然であり、本質的に推移しつつあるものである。…この全体としての出来事をわれわれは部分的な出来事へと弁別していくのである。われわれは自分たちの身体的活動としての出来事とか、この部屋の内部の自然的変化としての出来事とか、さらに、他の部分的な出来事の集合を漠然とではあるが認知しているのである。これが、まさに、事実をその部分へと弁別していく感覚意識における弁別なのである。
自然的実質とは、それ自体として考えられるなら、たんに事実の要因に他ならないのである。事実の複合体から自然的実質を分離することは、まさしく、たんなる抽象化にすぎないのである。実質は要因の基体ではなく、思考においてむきだしになった、まさに要因そのものなのだ。したがって、感覚意識を弁論的認識へと翻訳するたんなる心的な手続きであるものが、いつの間にか、自然の基本的性格に移しかえられてきたわけである。
ギリシア思想を基礎づけたプラトンとアリストテレスは出来事の過程がそれによって表現される、単純な実体の探求に心を奪われていたのである。われわれは「自然は何から作られているか」という質問のなかで、そのようにたずねる人の心的状態を定式化することができるかもしれない。この問題に対してこれら二人の天才が与えた答え、および、より特殊化していえば彼らの答えを形造っている用語に潜在している概念は、科学を支配してきた時間、空間、および物質に関する問われることのない前提を決定してしまっていた。
アリストテレスの論理学においては、肯定命題の基本形は、述語の主語への帰属である。したがって、彼が分析している「実体」という名辞の、今日のさまざまな意味での使用のうち彼は、実体とは「もはや他の何ものにも述語づけられない究極的基体」としての意味を強調する。…アリストテレスの論理学を無批判に受容したために、感覚意識に開示されたすべてのものにその基体を要請する、という伝統的な根強い傾向、つまり、われわれが意識しているものの底に「具体的事物」という意味での実体を求めるという傾向が現われるにいたったのである。
わたくし個人の考えでは、述語づけ(述語の主語への帰属)なるものは便利で共通の会話形式のもとに、多くの異なった関係を混同している、曖昧模糊とした観念であると思う。…諸特性の述語づけは、もろもろの実質のあいだのそれぞれ異なった関係を徹頭徹尾覆い隠してしまうのである。
科学的な意味においては、物質とは、すでに、時間と空間のなかに存在するものである。したがって、物質とは、時間的、空間的な特性を考えからはずし個体的実質というむきだしの概念へたどりつくことの拒否を表わしている。たんなる思考の手続きを、自然の事実へと移入して混乱におとしいれた原因は、まさに、この拒否にある。時間と空間の特性以外のすべての特性を剥ぎとられた実質が、ついに自然の究極的組織(texture)として物理学的地位を獲得することになった。
空間にあるものは実体ではなく属性である。われわれが空間において見出すところのものは、バラの赤さであり、また、ジャスミンの香りであり、さらには、大砲の騒音である。われわれは歯痛がするとき、誰しも、どの歯が痛むかということを歯科医師に告げるであろう。したがって、空間とはいろいろな実体の間の関係ではなく、いろいろな属性の間の関係なのである。
なにものかが移り行きつつあるところには、いつでも出来事が存在する。さらに、「いつでも、どこにも」という表現は、それ自身、すでに、出来事の存在を前提している。というのは、時間と空間そのものが、いろいろな出来事からの抽象化の所産であるからである。
言語というものは感覚意識に開示されている無限に複雑な事実を誤って抽象化し、それを習慣的に心に配置しがちなものなのである。
われわれが一掃しなければならない誤った考え方は、自然をそれぞれ孤立の状態にある独立した実質の集合体にすぎない、とみなす考え方である。こうした概念にしたがえば、その性質がばらばらに定義されうる実質が一緒になって、それらの偶然的関係によって自然の体系が形成されることになる。この自然の体系なるものは、したがって、まったく偶然的なものである。また、かりにその体系が、機械的運命にしたがっているとしても、それは偶然的にそのようにしたがっているにすぎない。
…わたくしが言いたいことは、物理的な自然(physical nature)を離れてしまうならば、いかなる空間的事実も、またいかなる時間的事実も存在しないということである。つまり、空間や時間は、諸出来事の関係について一定の真理を表現するやり方にすぎないのである。
2013年02月14日
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