2013年02月17日

一人称の「からだ」(過去ブログより再録)

村川治彦 2003 一隅を照らす光を集める ―オウム事件以後の一人称の「からだ」の探求に人間性心理学は何ができるか― 人間性心理学研究,21,43−52.


1.オウム事件が投げかけた課題

現代においては、自らの生きる意味を捉えなおそうとする行為が困難になってしまった。そうした行為の際にかつて拠り所となっていた様々な枠組が機能しなくなっている。人間を物質に還元して捉える近代科学は、人間が存在する意味を教えない。一方、そうした近代科学の成功によって、伝統的な宗教の価値体系は、科学的視点の下位に押しやられてしまった。こうした現状に対し、宗教でも客観性に偏重する自然科学でもない、独自の視点と方法で人間を模索してきた人間性心理学が果たせる役割は大きいであろう。


2.人間性心理学と「からだ」

人間性心理学は、行動主義心理学やフロイト派の精神分析が見失った、人間を全体性として探求するという知的関心の中から生まれてきた。人間性心理学が、単に理論的・知的に人間を探求するに留まらず、個々人が実践的・体験的に自らを探求するアプローチにまで拡大したのは、同じ時期により大きな大衆運動として始まったヒューマン・ポテンシャル運動の影響によるものであった。
ヒューマン・ポテンシャル運動では、様々な身体へのアプローチが行なわれていたが、それらは当初ボディワークと総称されていた。それに対しトマス・ハナは、全体としての「からだ」に対する独自のアプローチであることを強調するためにソマティクス(Somatics)という呼称を生み出した。ハナは客体としての身体と主体としての「からだ」の違いを、「人間が外側から、すなわち三人称の観点から観察されたとき、人間の身体(body)という現象が知覚される。しかし、この同じ人間が自らの固有感覚(proprioceptive sense)という一人称の観点から観察されるとき、カテゴリーとして異なる現象、すなわち人間の『からだ』(soma)が知覚される」と表現し、ソマティクスを「一人称の知覚で内側から捉えた身体としての『からだ』を探求する分野である」と定義した。
ソマティクスの代表的なアプローチとしては、センサリー・アウェアネス、アレキサンダー・テクニック、ロルフィング、フェルデンクライス、ライヒアン・セラピー、ロミセラピー、コンティニュアム、ボディマインドセンタリング、オーセンティック・ムーヴメント、フォーカシング、ハコミ・セラピー、ローゼンワーク、プロセス指向心理学などがある。
ソマティクスの特徴は、治療の対象としての他者の身体に向かう前に、自らの「からだ」を手がかりにした探求を大前提としている点にある。ソマティクスと同じ「からだ」の探求として生まれたアプローチでも、カイロプラクティクやオステオパシーなどでは、西洋医学と同様に身体は客体として対象化されており、治療者自身の「からだ」は問題とならない。これらのアプローチは、西洋医学と同居するために本来のスピリチュアルな出自を捨て、西洋医学的身体観(すなわち解剖学に基づく機械的身体)を採用し、医学と同じ客体化された身体(body)を扱う療法として社会的地位を確立したのである。
これに対してソマティクスのアプローチは、まず自らの「からだ」を通して人間性や身体と心の関係を探っていくことを大前提とする。一見多様なソマティクスの実践家たちは、「からだ」の経験こそが人間のアイデアや価値、感情、スピリチュアルな関わりの母胎となるという共通の認識を持ち、自然科学モデルに基づく心理学や宗教とは異なるところで人間性を探求する実践を重ねてきた。それは言い換えるなら、「一人称の科学」の具体的方法を提供するものであり、ソマティクスのアプローチは、西洋近代医学的な意味での治療を目的とするのでもなく、また伝統的宗教の修行法でもない、新しい一人称の「からだ」の探索であり、ポストオウム時代の私たちが生きる意味、人間性を探求していく一つのモデルを提供してくれる。
人間性心理学は、身体性を重視する要素をソマティクスから取り入れ、「身体と心の統合」を実践する様々な方法を開発してきたのである。


3.主体性を守る三つの視点

近代自我の確立を目指す西洋で独自の道を歩んできたソマティクスは、一人称の「からだ」の探求において、主体性を失わず自由な探求を進めていく方法に関して東洋にはない重要な知恵を育んできた。村川氏は、一人称の「からだ」の体験を追及する際にいかにすれば主体性を失わないかについて、ソマティクス研究家であるドン・ハンロン・ジョンソンが提示する三つの視点を紹介している。ジョンソンは、この分野のパイオニアの声を集め、他の分野の研究者たちとの協同研究の基礎を築いてきた。
ジョンソンが提示する一つ目の視点は、身体に働きかけることで自らが「からだ」の主体であるという感覚を育てる「正当性の技術(Technology of Authenticity)」と、反対にそうした主体としての感覚を失ってしまう方向へと導く「疎外の技術(Technology of Alienation)」との区別である。
身体技法を学ぶ場合、それを実践する人が、自らの感受性を高めより豊かな知識と自らへの肯定感を深める技法のあり方と、実践する人が、外的に与えられた目的を達成することに必死になるあまり、自らの体験自体にほとんど価値を置かなくなってしまう技法のあり方(そこには罪悪感、自己否定感が忍び込む)とを区別することが重要である。
二つ目は、一人称の「からだ」を探る多様なアプローチを考える上で、それぞれのアプローチが持つ原理と技法とを区別する視点である。ここで言う原理とは「ある発見へと導く源」であり、技法はそうした原理を体験するための方法である。
原理を体得するために、それぞれのアプローチは様々な具体的技法を開発してきた。しかし、そうした技法上の違いが強調されすぎると、それぞれのアプローチの独自性だけが強調されてしまう。それに対して、技法が生まれてきた原理のレベルに注目すれば、異なるアプローチでも共通の基盤があることが認識でき、対話が可能になる。
ソマティクスにおいては、すべての技法の上位に西洋が発達させてきた「自由な探求」の原理があり、そのことが技法を学ぶ上で権威に盲従する危険性を防いでいる。特定個人の権威を否定し、「自由な探求」を原理とする姿勢は、アメリカにいるソマティクスの創設者たちの共通認識でもある。
一人称の「からだ」の探求において主体性を失わないための三つめの視点は、地図と領域とを混同しないことである。「からだ」での体験は、意識や言葉以前の全体的なものであるが、私たちはそうした体験から我に返ったとき、その体験の意味づけを求める。他者に対して、あるいは何よりも自分自身に対して言葉で説明しようとする。そうした意味づけによって、体験を理解し安心できるからである。
「からだ」の探求において未知の体験に出会ったとき、私たちはその体験の意味を即座に求めすぎるあまり、外の権威に頼ってしまう。しかし、そうした外的な意味づけは、体験という領域をあらかじめ与えられた地図と混同することにつながり、その混同は必然的に体験者の主体性を奪ってしまう。
一人称の「からだ」の体験を探る際には、他の地図を参考にしながらも、最終的には一人一人が自分の地図を作ることが大切である。それを可能にするには、まず様々なアプローチのパイオニアや熟練者たちが、原理と技法を区別した上で、それぞれの地図をどのようにして作ったかという基本的な情報を公開し、共通の場で照合検討していくことが必要になる。現在、一人称の「からだ」の探求においてそれぞれ独自の地図を作ってきたソマティクスの実践家たちは、互いにそれぞれの地図を比較、照合する基礎作業を積極的に進めている。


4.「からだ」の探求をどう共有するか

人間性心理学者たちは、物理学に範を置く実証主義科学の方法論の限界を乗り越えようと、1970年代から人間科学としての独自の方法論を模索してきた。現象学、解釈学などの伝統を基盤にした近年の人間科学の発達は、研究対象の定義、研究方法の提示、現象の観察といった手続きを経て、人間科学独自の基本データの蓄積を行なう方法を編み出してきた。こうした人間科学の方法論に基づく研究は、瞑想体験や痛みの体験を始め「からだ」を探求する様々な領域で成果をあげているが、それでもまだ十分に解決されていない二つの点がある。一つは体験を言葉にする際の問題、もう一つは研究成果の検証の問題である。
前者に対しては、新たな手がかりを与えてくれるものとして、ユージン・ジェンドリンの哲学がある。「からだ」の探求者の体験を言葉にする際に、言葉が体験過程を進めるように、インタビュアーと体験者が言葉をフェルトセンス(特定の問題や状況についての「からだ」の感覚)に戻して確かめながら対話を進めていくことが重要である。
後者の問題を考えるにあたっては、科学の営為を客観性の追求ではなく「自ら知っているものを他人にいかにして発見させるか」という知的探求の出発点に戻すことが大切である。そうすれば、研究成果の判断基準を、抽象的な客観的真理とそれに基づく有効性から、同じ「からだ」の探求を行なう協同研究者にどれほど意味のある形で正確に提示されているかという共有可能性に置き換えることができる。


5.最後に

伝統的宗教がその力を失い、一方で西洋近代の諸価値の行き詰まりが顕著になっている現代社会において、人間とは何か、生きている意味とは何かというスピリチュアルな問いを真剣に探求しようとする人々が増えている。そうした人々がオウムのような道に迷い込むことなく、より開かれた「正しい」方向に進んでいくためには、互いの体験を検証し合える協同作業のための開かれた場が必要である。この30年間、ソマティクスや人間性心理学は、狭く閉じ込められ体系としての宗教でもなく、人間を物質に還元してしまう自然科学でもない第三の道として、そうした場を提供することを模索してきた。
日本には「一隅を照らす」という素晴らしい言葉がある。一人称の「からだ」の探求を行ない、それぞれの地図を頼りに一隅を照らす努力を続けてきた大勢の人々がいる。一つの大きな光で部屋全体を照らし出す時代が去った今、日本で一隅を照らし続けている人々に呼びかけ、地球というさらに大きな部屋を明るく照らしていくために、それぞれの掲げている光を皆で分かち合うことかが求められている。「からだ」とスピリチュアリティの探求に人間性心理学が果たせる役割があるとすれば、そうした呼びかけにこそあるのではないであろうか。
posted by baucafe at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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