通常、世界内存在としての「我」の「自己・世界」理解は言葉にこめられて貯えられているゆえに、世界は同時に言葉世界でもある。自意識の自我においては、言葉世界は意識に収められ意識は自意識につかまれて統べられており、自我は言葉によって世界を自分の世界として「私」し、差配しようとする。言葉と「我」性の隠れた結託が動いているのである。そして、自我は言葉の網をにぎって世界をとらえようとしつつ、その言葉の網に自我自身がとらえられている。
純粋経験(西田幾多郎)が言葉になる(自覚化される)原初態は、「私は音を聞いている」ではなく、「音が聞こえている」になる。それが「私なき私」なのである。「私は」と言わないで、音が聞こえている場所になっている「私なき私」なのである。
デカルトにおいては方法の整合性と優位性が確保されている。そしてそれは「我」の確立と結びついている。反省の再帰によって知と「我」とが一つになって同時に確実性を獲得する。西田(幾多郎)においても方法なしではない。しかし方法は圧倒される。反省によって求められる確実なものは、反省によって見出されるのではなく、方法を超え反省を破る仕方で方法以前の原始事実が原与される。
(デカルトの)疑って疑ってという方法の遂行に対して、西田(幾多郎)においては、疑うにも疑いようのない直接の知識にしてそのまま事実そのものであるところの純粋経験が提出される。これは疑うという方法によって獲得されたものではない。疑うという方法を圧倒し疑いそのものを断ち切るような仕方で、「疑うに疑い得ない」純粋経験の事実が原与されるのである。
「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」。その刹那によって、通常経験がそのなかでなされる「主観‐客観」の枠がいったん破られて、限りない開けが開かれるとともに、その開けが限りなく満たされている。西田(幾多郎)はこのような純粋経験に真実在の根底と真の自己の根源を見る。
原始の純粋経験を西田(幾多郎)は単純直截に次のように提示する。「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」。「風がざわざわいえば〈ざわざわ〉」が純粋経験である。通常、われわれはこのような「刹那」を知らず、このような「刹那」を飛び越し素通りして、間延びした時間のうちで「私は音を聞いている」「風が吹いている」と言い、これを直接の経験と思っている。しかし「私は音を聞いている」「風が吹いている」というのは、後のことである。
人間の身体の基本姿勢―「身」態であると同時に人間として存在する「姿勢」の具体性でもある基本姿勢として、行・住・坐・臥と言い習わされてきた四者がある。文化を営む人間存在の独特な形態学上の優位性を人間学が「住」(直立の姿勢を保つこと)に置くように、一般的には四者のうちの「住」(直立)に突出した意義が見られてきた。
直立によって単なる環境を抜け超えた「開け」が開かれたが、そのときこの「開け」は人間にとって実は二重になっているのである。すなわち、直立とともに「限りない開け」のうちに、直立した人間の自己中心性による座標軸をめぐっての「限りある開け」(周界)が、人間を中心にしてぐるっと円を描いたごとく成立する。
直立による自己中心性は世界の内に定位するための方法的中心であるとともに、自我性の拠点にもなるが、実は、直立運動そのものはその原初においては自我性への否定の可能性も含んでいたと見ることができる。すなわち、直立によって人間となった人間には、直立という垂直の運動感覚によって、同時に、自分を超えた高みへの感覚…ないし、立ち上がる垂直の運動のうちで反作用的に直立を支える土台…の確かさへのセンス、さらには深みへのセンス、単なる環境を超えた支える大地の深さへのセンスが与えられていたと考えられる。
直立によって世界が人間に開かれると同時に、直立した人間は自分を世界の中心とする。そのような人間主体が世界において「我」と言うのであるから、「我」と言うことと直立とは直接に結びついていると見なければならない。
世界は、そこに現れるもののみが私たち人間にとって意味をもって存在する開かれた場所であるゆえに、世界地平とも言われるが、地平にはまさに見えない「地平の彼方」がある。
形態学的な特徴である「直立」が単なる環境を超えた「世界」を人間に開いた…
人間存在には「何処で」ということが本質的に属している。人間はその基礎構造において場所的存在(西田幾多郎)であり、世界内存在(ハイデッガー)として規定される。それだけに私たちの居る場所が何処かは、私たちの存在の質に関わってくる。
…直立運動そのものはその原初においては自我性への否定の可能性も含んでいたと見ることができる。すなわち、直立によって人間となった人間には、直立という垂直の運動感覚によって、同時に、自分を超えた高みへの感覚(「高きにまします神」あるいは「天にまします神」というような宗教の言葉が出てくるもとにあるセンス)、ないし、立ち上がる垂直の運動のうちで反作用的に直立を支える土台(いわゆる「脚下」)の確かさへのセンス、さらには深みへのセンス、単なる環境を超えた支える大地の深さへのセンスが与えられていたと考えられる。
2013年02月21日
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