2013年02月24日

ハイデガーとサルトルと詩人たち

市原宏祐 1997 ハイデガーとサルトルと詩人たち NHKブックス

ハイデガーの著作にもサルトルの著作にも詩人論がある。両者とも詩に対して深く思いを寄せている。彼らが詩人について論じるとき、哲学書の中では決して表さないような心情を吐露している。本書では彼らの詩人論を手がかりとして、彼らの人間に対する思い、哲学の究極の願いに焦点を当てようとする。

1960年代後半から1970年代前半にかけて、世界の思想的な動きは〈普遍〉から〈個別〉へと移り変わってきた。そうした中で、ハイデガーとサルトルの立場は〈普遍〉でも〈個別〉でもなく、両者を改めて捉え直そうとする視点をもっていた。
彼らの詩人論は、当然そうした立場に関係する。彼らによると、詩人たち(ハイデガーにとってはヘルダーリンであり、サルトルにとってはマラルメやジュネである)は〈個別〉と〈普遍〉を繋げようとする無限の精進の過程を生きるほかはない。そして、詩人(人間と言い換えてもよい)であることの偉大さは、〈普遍〉を完全には体現しえない悲しみに面前しつづけることにある。

終わりに、「詩の次元」という章から「詩人のことば」について書かれた箇所を引用しよう。
「詩人はことばの世界に投げだされている。ことばに包囲されているといってもいい。散文家にとっては、ことばは透明なるものであり、世界のあれこれの事物に導く案内者であった。ところが、詩人にとっては、それはひとつの事物として、不透明なるものである。散文の場合とはちがって、むしろ世界の事物にいたることを妨げる障碍物である。詩人は道具としてのことばではなくて、障碍物としてのことばに囲まれているのだ。」
posted by baucafe at 02:01| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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