2013年02月26日

内海健著『精神科臨床とは何か』より

「私」とはまさに脳の欠陥を補填するために―「ために」というのは正確ではありませんが―「創発」されたものなのです。この「私」ないし自己という審級があるからこそ、脳がきちんと作動するのです。しかしこの虚焦点のような「私」は脳のどこを探しても見つからないこと、それはもはやいうまでもないでしょう。


われわれの主体、われわれの体験は、生命というダイナミックなものと、記号あるいは言語という構造的なものの狭間に生成するものであるということが言えそうです。前者が体験を活性化するのに対し、後者は安定化させるものとして機能するのです。


脳という舞台に起こることは、そのものとしてはばらばらで統制を欠いています。そのままでは経験になりません。経験となるためには、それらが「私」の経験とならなければなりません。…とはいっても、この「私」というのは、事象そのものには何も付け加えるものではありません。実体のない、虚焦点のようなものです。しかし体験は「私」の体験としてまとまらないと、解体してしまいます。


生まれ落ちた時点で、人間の脳は十分作動しません。とくに運動系は、口から咽喉頭にかけての運動を例外として、ほとんど機能していません。おっぱいを飲んだり、泣いたりすることはかろうじてできますが、あとはほとんど有効に作動しないような状態で生まれてくるのです。…それゆえ、他人の助けが、絶対に必要になります。生き延びるためには他者が絶対に必要であるということ、これは単純ですが、きわめて重大なことです。われわれの生をその始まりにおいて、そして最も深く規定する事実であるといえるでしょう。
posted by baucafe at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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