私があることについて判断を下すとしよう。すると、その後にそのことについてどんなに調べ直してみても、私の判断の正しさを裏付ける証拠しか見つからない。…私は元から判断を覆す気などないのだ。
何度も努力して同じことを繰り返した…と言うけれど、何度も同じことを繰り返して同じ(望まない)結果しか出ないのなら、違うことをしてみてはどうだろうか?
考えて答が出るのは計算問題くらいだ。そんなものは始めから答が決まっている。…人生の岐路で考えたって答は出ない。それでも考えるのは答を出すためじゃなくて、前へ進まない(決断しないでいる)ためだ。…考えて決めるなんて所詮は無理な話だ。考えるのは行動を先延ばしにする手段でしかない。
これまでと変わらず、自分のくり返してきた学び方で学ぼうとするかぎり、自分の学びたいことしか学べないだろう。…学ぶためのコツ? 不安定になること、不安になること、打ちのめされること…。
どの教師も教科書も、(暗に)こんなふうに言ってはいないだろうか?「私が取り上げて説明する以外のことを無視しなさい。そうすれば私の〈代弁者〉になれる」
「…比喩ではなく、私たちは誰もが例外なく白昼夢を見ている。道具立ては違っても、日常の出来事は夜見る夢の延長に過ぎない。夢は昼夜を通して私たちを支配し続けている」ドゥエルフ(Duerf)著『現判断』…夢を止めてみたい?
夢を止めてみたい?…僕らのまわりにはたくさんの「フック」がある。壁とかに付いたのだけじゃなく、いろんな出っぱりが代わりになってる。…大きいのや小さい把手、椅子(特に大きくて立派なの)やバックシートの背もたれ、自分や他人の鼻や耳…。僕らはそうした「フック」に夢を引っかけて生きてる。
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