自我の主観性が明確に把捉する体験の流れは、あくまで意識野の時間空間的枠内での内省内容であって、それを包む無意識的ないし前意識的要素は排除されている。事後的な気づきによってこうした要素が内省の網によって把捉され、意識的主観性に括り込まれるのである。
経験は、個人の心的内面や皮膚に囲まれた身体の内部で完結するものではなくて、社会や自然という生態的環境へと脱自的に延び広がったものなのである。
意識はモノではなくてプロセスなのであり、脳と頭蓋骨の枠を超えて環境世界に延び広がっているのである。換言すれば、脳は外延をもったモノであるが、意識は外延が環境世界にまで拡散した開放的で流動的なシステムなのである。
意識と脳の関係の本質を理解するためには、意識の主観性が他者との関係から生まれる脱自的性格をもつということ、ならびに意識の主観性の基盤となる脳の神経システムが他者の脳との情報交換(コミュニケーション)を介して構築されるということに目を開かなければならない。
コンピュータのハードウェアの基礎となる電子回路網は製作時から固定されたものであるが、生物としての人間の脳の神経回路網は経験や学習によってその結合様式を可塑的に変化させる。これを脳の神経「可塑性」と言う。そして、それは脳内に一千億個ある神経細胞(ニューロン)間で神経線維の配線の変化によって生まれる性質である。
普通、意識というと個人の経験ないし体験の主観的内容を意味するものと受け取られているが、それは表層に触れているにすぎない。意識の根源的働きは生命活動に密着したものであり、主観性を核とする自覚的意識の辺縁に薄暗く延び広がる無意識的要素をも包含した「経験」を源泉としている。
デカルトからカント、フッサールに至る主観性重視の意識理解は、「生命の道具としての意識」という観点から完全に逸脱し、結果として意識の自然的本性を捉えることができなかった。最初に「我思う」という自覚的意識の主観性があるのではなく、「とにかく生きよう」とする本能的意志があるのだ。しかし、それは全く盲目的なものではなく、整合的な自己組織性をもっている。
我々の意識は、身体の生理活動を質料因とし、環境世界の情報構造ないし意味連関によってその目的性を付与されるものとして、自然に対して開かれている。
意識と自然の一体性を理解する際、身体性が重要な契機となるが、単に意識への身体感覚の現れを記述しただけでは主観主義に終わってしまう。超越論的現象学はこの陥穽にはまりやすい。意識はむしろ現象を超越した物自体の領域にあるのだ。
一切の経験を先験的眼差しで見守る主観としての自我が最初にあるのではなく、世界と自我が有機的に統合してなされる「経験」が最初にあり、反省の結果先験的主観という観点が生じるのである。それゆえ経験の主体は一般に考えられているような意識的自我ではなく、「世界と自我の運動」という生命的事態なのである。
経験は単なる主観的現象ではなく、物理的性格をもった自然現象であり、自己と世界の連動ないし共鳴において生起する。この場合、世界自体が経験的性質をもっている、ということになる。
経験は単なる主観的体験内容ではなく、自然と一体となった生命体の身体的活動から発する生活の機能である。意識の主観的特質は経験という氷山の一角にすぎないのである。
心とは生命体が環境の中で身体を使って行為することそのものなのである。最初に身体的行為ないし社会的行動があり、その後で反省の結果自覚的意識と自我の観念が形成されるのである。
…意識には内容がある。それは脳の外部の環境世界から受容された知覚情報の組織化であり、純粋に内発的なものは何一つない。本人しか知りえず他人がアクセスできない秘密の思念もまた外部由来の知覚情報の組織化にすぎない。
主観と客観、心と身体、精神と物質を峻別する二元論的観点から意識というものを「思考」中心に捉えると、反省的自己意識が生じる前の身体的自我の自然的意識性というものが視野の中に入ってこない。言語を介した思考とそれによって可能となる反省的意識は後発のもので、自己意識の真の源泉は乳幼児期の身体的意識の生命的自然性にある、と言える。
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