2013年03月15日

河村次郎著『情報の形而上学』より

「存在」とはそもそも主観でも客観でもない。それは両者の対立を超えている。認識論における主観−客観対置図式は、存在という基底から派生したマーヤーのヴェール(迷妄の元)である。認識主観に対象への関心を引き起こし、対象には形相を付与することによって意味を励起する「根源的力」、それが主観と客観を包む「場」としての「存在」である。


情報は一般に人間的意味を帯びたメッセージや知識として理解される傾向がある。それゆえ広い意味での主観性の刻印を帯びている。つまり情報は、それを受容し認知するものなしには存在しえない、と考えられてしまうのである。ここには認知者の意識が関わってくる。意味を認取するためには受容者の意識的情報処理が必要だとみなされるからである。


自然的実在性は客観的実在性とは異なった概念であり、後者と違って主観性をも包摂する力を秘めている。主観的観念論によると、意識の関門を通らないものは、その実在性を論じる資格をもたないものと判断される。それに対して自然的実在論によると経験は無意識的要素も含んだものとして了解され、意識による確認機能が過大に評価されることはない。そしてこのことが主観―客観対置図式の道具的性格の看取につながり、ひいては心的―物的という二元論的構図の便宜的性質の認知に導くのである。


我々の認識作業は、内省的意識による確認によってのみ成り立つものではなく、非意識的ないし非内省的行為という生活的要素によっても深く彩られている。普通、内省的意識が作動し始めるのは、行為ないし身体運動が停止したときである。


…先験的意識の傲慢性は、時間の先験的繰上げをしてしまう。ここから、常に心の内容を監視しているのは意識であるという主観的観念論の独断が生じる破目になる。


「経験」は、素朴な概念としては反省的思考と重なったものとして理解され、その中核には主観的意識がでんと控えているかのように思い込まれている。しかし、厳密な哲学的規定からすれば「経験」は、無意識的認知によって彩られており、行動から分離されていない。ただし、主観的意識も一契機として包含するものなので、反省的思考という形態を取ることもできるのである。


遺伝子は分子言語としての生命情報なのである。とすれば、人体は単なる物質ではなく、情報によって形成された生理的システムとみなされるはずである。もっと率直に言えば、人体は情報が形となって表れた物質的システムなのである。これをアリストテレス風に表現すると、DNAという形相が人体の質料的システムに秩序を付与している、ということになる。つまり、我々の身体の物質的組成も生理的機能もすべてこうした形相的「情報」の多面的現れなのである。言うまでもなく、それは精神現象にまで及ぶ。


我々の身体は個々の臓器や組織の単なる複合体ではなく、様々の情報伝達路によって賦活される生理的システムである。自律神経系、免疫系、内分泌系、神経ペプチド系といった伝達経路は、種々の伝達物質を介した情報システムとして身体の生理的活動を自動的に制御している。こうした情報伝達は、すべて生命体の状態依存的な情報のコード化を使ってなされており、ここに心との接点がある。


認識論における主観―客観対置図式は「物の見方」とか「事象の知り方」を整理して理解する際に用いられるものであり、「実在は実際にはどうなっているのか」という存在論的問いに直接適用できない。しかし、我々の素朴な思考姿勢は、認識論的観点をそのまま存在論的問いに応用してしまう。そこで、本来存在論的であるはずの「物」とか「心」という概念ないし事実が、認識論的視点から「客観的なもの」と「主観的なもの」に置き換えられてしまう。つまり、物は客観的事象で心は主観的現象だというわけである。


認識論的視点はたしかに必要だが、物や心の本性は主観や客観という概念では十分に捉えることはできない。それらは、議論を整合的にするための道具、つまり構成概念にすぎないのである。換言すれば、それらは実在するものではなく、実在を把握するための思考の整理役なのである。


心身問題は、本来「実在は実際にはどうなっているのか」という存在論の思考圏内に属するものであり、心身関係を理解し解明する個々の方法が妥当かどうかに関する認識論的議論の彼方にある。もちろん方法論の彫琢のためには認識論的議論は必要だが、最終的決着を下すのは存在論的議論である。


生命は人間中心主義の視点からではなく、自然の自己組織性に基づいて理解されるべきものであろう。もちろん人間の尊厳という観点も重要だが、それが生命全般の尊厳を顧慮しないものなら、環境破壊につながり、生態系のサイクルを乱し、結局は自らを滅ぼしてしまうのである。


そもそも「生きている」という表現は、原子や分子によって構成される物質にはふさわしくない。高度の分子構造をもった物質的組織の複合体たる生物学的生命も、それが「生きている」と言われるのは、どういう分子から成り立っているかという観点からではなく、どのような自己組織性をもって環境や他の生命体と関係を築きつつ活動しているかという点に着目してのことである。


生命体がどのような物質によって構成されているのか、という質料因への問いは、生命の意味的側面には直接関わらない。意味に関わるのは形相因と目的因への問いである。こうした問いは、「なぜ私は存在しているのだろうか」「何のために私は生きているのだろうか」という実存的問いかけに端を発し、さらに他者の生命の価値や生物全般の存在の意味へと敷衍していく。
posted by baucafe at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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