2013年04月16日

岸見一郎著『アドラー 人生を生き抜く心理学』より

この世界に起こるすべてのことに意味があるとは、私は考えることはできない。何の罪もない人が、たまたまその場に居合わせたというだけで暴漢に刺されるとか、若くして病に倒れるということが、それ自体で何か意味があると思うことは難しい。あまりに理不尽なことだからである。


自分の価値は他者からの評価に依存しない。あなたはだめな人ね、といわれたからといって、そのような他者からの評価によって自分がだめな人になるわけではない。反対に、他者が自分を高く評価したからといって、その評価によって自分の価値が高くなるのではない。


叱るということに、怒りの感情が伴わない人はいないだろう。アドラーは、怒りは人と人を引き離す感情である、といっている。子どもを援助したいと思うのであれば、距離が近くなければできない。


およそあらゆる対人関係のトラブルは、人の課題にいわば土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こる。親子関係だけではなく、あるゆる対人関係についていえることである。


多くの心理学は決定論に立っている。神経症の症状や問題行動には原因があって、原因となる過去の出来事や外的な事象がそれらを引き起こすと考えれば、その原因を除去する以外には、治療の手だてはないことになるが、そのようなことは不可能である。


人は他者から離れて生きられず、その意味で、人はこの世界に属しこの世界の一部だが、世界の中心にいるわけではないので、世界あるいは他者から当然のこととして与えられるわけではない。


人が一人では生きられないという時、そのことの意味は人が弱いからということよりも、人はその本質において初めから他者の存在を前提としており、他者と共にあることで、人は「人間」になれるということである。


他者のことはわからない、と思って、そのことを前提に人を理解することに努める方が、他者の理解に近づく。わかっていると思っていたら、自分の理解が誤っているということすら思いつかないことになり、他者を理解できないだろう。


他の人の気持ちや考えがわかるべきだという人は、必ず同じことを他者にも要求する。即ち、他の人も自分が何を思い感じているかを、自分が言葉を発しなくてもわかるべきだと考えるのだが、言葉を発しない限り、自分の思い、考えが人にわかるはずはない。


人は、自分が意味づけした世界にしか生きることはできない。しかし、その意味づけがあまりに私的なものであれば、他者との共生は困難になる。


何かをする、あるいはしないという目的がまずあって、その目的を達成する手段を考え出す。怒りという感情が私たちを後ろから押して支配するのではなく、他の人に自分のいうことをきかせようとして怒りを使う。


人は同じ経験をしたからといって、誰もが同じようになるわけではない。同じ経験をしてもその経験に異なった意味づけをするからである。過去の経験や、目下置かれている状況についても意味づけの仕方は人によって異なる。


アドラーが語る言葉は、時に厳しく響くが、しかし、今生きづらいと思っている人があれば、そのことの原因を過去に遡って探るのではなく、これからどうすればいいかを語りかける希望の言葉である。


過去の出来事に今の問題の原因を求めてみたとしても、それで問題が解消するわけではない。「問題」をなんとかしようとするなら、これからどうすればいいのか考えていくしかない。
posted by baucafe at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書
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