2013年10月08日

教えること、学ぶこと/最近のツイートより

「活きた技」は繰り返せるものではない。それは他の時ではないその時に為されなければならない。…だから例えばそれを伝えようとしても伝えられるそれはそれそのものではない。(2013/7/27、改)


「地図はそれが示す領土ではない」(コージブスキー)…この言葉に倣って言うと「解剖学はそれが示す身体ではない」(2013/8/4)


アイダ・ロルフはあるエッセイの書き出しで、自らの思想を後進の者たちに伝えきれない焦燥感を表現している。そのエッセイで彼女は、重力場において身体的(生体力学的)に最適な状態に至った人間の在り方について述べている。(2013/8/5)


ある人の問題にはその人に固有のパターンがある。「反応連鎖」の型とでも言おうか。この「連鎖」を断ち切ることができれば多くの問題が解決する。(2013/8/5、改)


ある先達が言ったことを思い出した。…もう教えることを焦らない。学ぶことを押しつけてしまう。ひとは学びたいことしか学ばない。…言われたのは私なのだろう。(2013/8/11)


資格を作ることによって技術(わざ)は劣化する(その資格が個人によるものでも、国家によるものでも)。…資格制度によって技術が向上する技術者も多いだろうが、資格を得ることで単に生活が助かるという者も少なからず。問題は資格者の犠牲になるクライアント(客、技術の対象者)が少なくないこと。(2013/8/16)


〈技〉を習得するとは、自らを新しくすることだ。技術が身について、それで終わりのはずがない。…〈技〉は、習得される度にその習得者を「大破」するのでなければならない。(2013/8/16)


「師/弟」関係でなく「講師/受講生」関係だから、講習期間の終了と同時にその関係も当然解消。…次回は私のほうが受講生になるかもしれない。(この関係を突き抜けて進もう)(2013/9/1)


本末転倒じゃ?おざぶじゃなく、人生にどう「座る」かじゃないの?歩いていても、立っていても、座っていても、寝ていてもね。時間限定の「お座り」にしちゃうってどうよ?(2013/9/15)


ある技術を教える教師は、その技術を行う技術者が片手間にできるものではない。教師は教えることの技術者でなければならず、究極的にはその技術を行う技術者である必要はない(その技術を知る必要さえない)。(2013/9/23)


有効な(実際的な)技であるほど、ワーカー個人の特質、対象や環境の捉え方、関係の築き方などに深く根差している。言わば個人技。…手技の外観だけを取り出しても、使える技にはならないことも。(2013/9/27)


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