理解はすべて誤解だ。これは間違いない。
それを承知で理解するのなら、救いはあるかもしれない。
理解することで、自分と理解される対象との関係が断絶する。
「分かった」というが、それはその対象が自分の頭の中に収まったということだ。
このちっぽけな頭の中に、目の前の対象がどう収まるというのか?
それで自分には、もう目の前のものが見えなくなる。
理解を選んでしまうのは、「言い訳」と思えばよい。「一時しのぎ」と思えばよい。
そうしなければ、自分にはその対象を制御できないから。
理解を支えるのは恐怖心に違いない。
2013年12月05日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/81939491
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/81939491
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック