2015年10月20日

傾聴、あるいは聞こえていること

傾聴とは、一般的な意味では、耳を傾けて話を聴くことでしょう。
ボディワークで言う傾聴は、耳を傾けるのではなく、手で感じ取ることです。
相手の発話が対象ではなく、身体が対象です。
リズム、張力、流れるもの、発するものなど、身体の微細な動きや働きを、手によって捉えることです。

動きや働きを聴く際には、私たちは、自分の場所に止まって聴くことはできません。
止まって聴こうとするなら、動きや働きに対して、私たち自身が抵抗となってしまうからです。

自分の場所を後にすること、そして自分を手放すことで、私たちは枯葉のように軽くなります。
ボディワーカーの傾聴には、浮遊感(注)、足場のない感覚が伴います。

(注)「浮遊した安定感」とでも言えばよいでしょうか。

・・・
自分の場所も、自分もなければ、傾聴とは、聴くことではなく、聞こえていることなのかもしれません。


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「筋膜リリース体験ワークショップ」
開催日時:2015年10月31日(土)14:00〜17:00
会場:オープンパス・オフィス(東京都新宿区西新宿4−32−4)
講師:小川隆之、斎藤瑞穂
ご参加料金:7000円
http://baucafe.sblo.jp/article/164165974.html

「一から始める触察解剖学」
開催日時:水曜日の夜間(19:00−21:00)
会場:オープンパス・オフィス(東京都新宿区西新宿4−32−4)
講師:斎藤瑞穂、小川隆之
全8回参加の方/1回6000円、48000円+消費税
単発のご参加も可能。日時、金額の詳細はこちら↓でご確認ください。 
http://rolflingopenpath.sblo.jp/article/164099027.html

よみうりカルチャー恵比寿「気軽に出来るボディワーク」
開催日時:第1、第3金曜日 19:00−21:00
会場:アトレ恵比寿7F よみうりカルチャーセンター
講師:斎藤瑞穂、小川隆之
お問い合わせ先:よみうりカルチャー恵比寿
http://www.ync.ne.jp/ebisu/kouza/201510-11510320.htm
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2015年09月24日

誰もが死へ向かっている

誰もが死へ向かっている。これは確かなことだ。
しかし、死を間近に自覚した人とのボディワークを、どのようなものと想像するだろう?
私たちは、死というものを見据えるならば、1つか2つの(あるいは、3つか4つだろうか)問題を解決するよりも、そこへ至る過程における、多様な身体表現を見出していかなければならない(ならなかった)。

(しかしまた、他の道もあったかもしれないのだ・・・)
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2015年08月12日

十年一昔

フェイスブックで目にしたのですが、私が敬愛する某ロルファーが、ロルファーになって今年で10年目になると書いていました。
共に活動したこともある方なので、大変になつかしく思いました。
すると様々なことが、・・・忙しさの中で忘れていたことなどが、次々と思い出されました。

「十年一昔」といいますが、10年は長いようで短く、短いようで長いです。
「長いようで短い」というのは、10年前のことが昨日のように思えるからです。
「短いようで長い」というのは、様々なことがあって、もう後戻りはできないと感じるからです。

10年前と言えば、斎藤瑞穂との共著『ボディワーク入門』が出た年です。
私はボディワーカーになって8年目だったと思います。
それより13年前にクモ膜下出血で倒れた母を、生活のために、ボディワークに打ち込む日々のために、介護することが疎かになっていたのを思い出しました(母は、今年2月に亡くなりました)。
その当時も斎藤が、私を精神的に支えてくれていました。

本当に、10年は長いようで短く、短いようで長いです。

私は五十を過ぎました。
これまでの出会い、これからの出会いを大切に、生きていければとよいなと思っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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2015年06月23日

もしもボディワーカーになりたいというのなら・・・

考えるというのは、頭のなかでの作業だが、感じるというのは、環境と関わらなければできない。
感じながら考えることができればよいのだが、それがむずかしいというひとも、けっこう多いようだ。
どうしても、頭のなかで考えが行ったり来たりしてしまって、感じることができない。
そういう場合には、「考えるな、感じろ」という言葉が役にたつ。

この言葉は、ボディワークを習いはじめたばかりのひとにも役にたつが、もしもそのひとがボディワーカーになりたいというのなら、いつまでもこの言葉にしがみついているわけにはいかない。
「考えるな」はよいのだが、ひとにもじぶんにも「感じろ」と言いすぎてはならない。

感じるときには、感じることだけを感じ、感じないことを感じようとしてはならない。
感じようとすれば、目のまえにいるクライアント、あるいは対象物から遠ざかり、自分の「内なる世界」におぼれてしまう。
そして、おぼれてしまったら、「妄想者」となるしかない。

さらに加えて、ボディワーカーは感じることを超えていかなければならない。
その先へ行かなければ、ボディワークの熟達も、習得さえも本当にはかなわない。

自転車に乗れたあとは、自転車に乗ることはからだにまかせておいて、買い物のことでも考えていればよい。
ハンドルを操ることやペダルを踏むことなど考える必要はない。
同じようにボディワーカーは、手技の使いかたをおぼえたあとは、感じることは手にまかせて、セッション・ゴールのことでも考えていればよい。
そして、そうなれば、「熟達者」だ。

熟達のためには、「考えるな、感じるな、しゃしゃり出るな」と言うしかない。
これは、ボディワーカーの「わたし」に対して言う言葉だ。
加えて、その「わたし」に対して、「おまえは、おまえの仕事をしな」とでも言っておけばよい。
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2015年06月14日

筋膜リリースとロルフィング

某ボディワーカーが、筋膜リリースとロルフィングとを等しいものと捉えていて、某所でそのことを公言しているらしい。
私はロルファーではないし、ロルフ・ワーカーでもないので、構う必要はないのだが、気になったので、ひと言したい。

筋膜リリースはロルフィングの代わりにはならない。
技術と技術体系とは異なるのだ。

技術体系は価値(何が善であるのか)を軸として成り立つものだ。
ロルフィングが技術面を変化(進化・改良)させながらも、ブレずに来たのは、この軸があるからだ。
今後もロルフィングは、人間の(身体の)可能性を追求し続け、発展していくことだろう。

筋膜リリースとロルフィングとを等しいものと捉えているそのボディワーカーは、自らが携わる技術体系をどう理解しているのだろうか?
経験がそれほど浅いわけでもなさそうだが、自らが携わる体系の軸である価値、思想を、例えば「技術にどう活かすことができるのか」あるいは「自分なりにどう深めていこうか」などと錬るようなことは、これまでになかったのだろうか?

筋膜リリースに対するロルフィングの最大の強みは、技術力というより思想力ではないかと私は思うのだが、ロルファーの皆さんはどう思うのだろうか?
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2015年06月12日

食べることに関する問題

年に何回か、1週間くらい、鶏や魚を中心とした動物類を食べられなくなる。
鶏だけ食べられない場合もあるし、魚だけの場合ある。

今、その食べられない状態になってしまったのだが、今回は、どの動物も食べられない。
生理的にダメで、口に入れることができない。
そばつゆなども、鰹節が入っていると、のどを通らない。

動物の毛皮の感じとか、魚の滑った感じとかを、全身の皮膚で感じてしまう。
かつ、彼らが生きていたときの匂いが、立ちこめて来る。

始まってもう1週間になるが、今回は長引くような予感がある。
安心して食べられるのは、穀類、根菜類、乳製品(牛肉はダメだが、牛乳は大丈夫)など。
加えて、ナッツも大丈夫だ。


食べることに関しては、問題が多い。
上に書いたことの他に、2年に1回くらいの割合で舌痛になり、ひどいときには、どんなものも食べられなくなる。
痛みが消えて、食べられるようになっても、味が感じられず、しばらくは土を噛んでいるような気がしてしまう。
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2015年05月27日

伝達回路を新たにしなければならない/最近のツイートより

学びの過程で最も必要なことは混乱だ。それは思考に対する、また神経系に対する革命なのだ。真に学ぶためには、認識の枠を打ち破り、伝達回路を新たにしなければならない。
(2014/12/16)


自らの肉とならないような学びなど、学びと言えるだろうか?
学んだものを荷物のように持ち歩くとでも言うのか?
私の声、行為、存在の中に留まらないものであるなら、それは私にとって重荷でしかない。
(2015/3/3)


最初に問を発したとき、問うた者は、全ての問に答がある、あるいは1つの答があると思っていた。問うた者は答を得られず、それでも問い続けた。問うた者の経験によって、問は育まれた。やがて問うた者は、問を体現し始めた。最後に、問うた者自らが1つの問となった。…答はどこに?
(2015/4/15)


変化は容易に起こる。それは時間のことなのだ。変化が起こらないと言うのは、時間が経過しないと言うのに等しい。ところで、私たちの仕事は変化を起こすことではない。その速度を上げることだ。
(2015/4/21)


20年以上、大病院の現場を患者側として体験してきた。そこでは管理体制が確立している。それは安全のためだ。誰の安全かと言えば、現場スタッフ、病院側の安全だ。しばしば、この安全が患者側にとっては辛い拘束となり、傷となる。
(2015/4/25)


技術の本質は何かと言えば変化を起こすこと。オープンパス・メソッドの言い方では変化の速度を上げること。変化(に限って)は不変であり常態なのだから、私たちにできるのはその速度を上げる(または変える)こと。技術と言うのなら、あからさまな(誰も見逃さない)変化を演出できなければならない。
(2015/4/27)


未知の世界へ踏み込むのだから、教科書もないし教師もいない。どんな方法も努力も、既知のものは通用しない。だからこそ、未知なのだ。もがき、あがけばよい。畏れ、楽しむことだ。
(2015/4/28)


ソマティカルワークを行うに当たって。最初の時点では動きの指導は必要ない。間違った動きも良くない動きもない。どんな動きでも構わない。動く感覚に留意するところから始めなければならない。留意の方法を学ばなければどんな動きも役には立たない。
(2015/4/30)


筋膜はボディワークの最重要原理である「ホーリズム」に合致する器官であるとよく言われる。局部の筋膜にだけ働きかけたとしてもその連続性によって全身に影響が及ぶ。ではその影響とやらを今すぐ目の前で見せてほしいと誰かが言ったとしよう。残念ながらそれができるボディワーカーは多くないだろう。
(2015/5/3)


認知のあるところには必ず主客があるが、経験のあるところには?
必ずしもあるとはかぎらない。
ソマティクスの実践では「消失する」ことも少なくない。
経験するものも、経験されるものもなく、単に経験がある。
ソマティクスではそのことを無人称の経験という。
(2015/5/6)


その場で結果を出せなかった施術者が「後から良くなりますよ」と予言者に早変わり。あるいは暗示をかける催眠術師とか?
こんなこと、他の業界ではあまりないのでは?というか、許されないのでは?
すぐさま主訴を解消しろとは言わないけれど、プロなら常に結果を出そう。
(2015/5/9)


考えるとは立ち止まること。それはそれで必要なこと。考えるとは流れを止めること。それはそれでよい。考えるとは自分の枠を固めること…
まさに変化を要するその時に考えるとは?
(2015/5/16)


技術体系というかぎり、技術の寄せ集めというわけにはいかない。それは体系化されたものでなければならない。統合された全体として実際的に機能しなければならない。…技術体系は基本的に3つの要素で構成される。技術、理論、思想の3つである。
(2015/5/20)


エア・パルペーションは凝縮された経験となる。数日を要する技術学習が数時間で可能だ。数年は数週間で。
日々行えば日々進化する。学習が進むだけではない。感覚力が驚くほど向上する。
疼痛解消テクニックなどは1週間を要さず習得できる。
(2015/5/26、略)
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2015年04月23日

触れる、触れられる

触覚には能動的なものと受動的なものがある。
すなわち、触れることで得られるものと触れられることで得られるものが。
触察で用いられるのは前者のほう。
触れる感覚を得るためには、対象へ向かう動作(とその感覚)が必要だ。
触覚というより触運動覚のほうが正しい。

ところで、触れる感覚に用いられる部位は生得的に決まっている。
両手掌、両足底、顔面の5部位に限られる(生得的には)。
これら5部位に文字を指書きされると左右を逆に認識(d→b)する。
ところが、他部位ではそうならない。
5部位では文字を身体の内から、他部位では外から(書いた側から)読むことによる。
5部位には刺激に「向かう」という、他部位には刺激を「迎える」という感覚様態があるのだ。

加えて、5部位には浅筋膜がない。
それがないことで、感受性に違いが生じる?
そうではなく、対象との密着度が上がる(「吸盤効果」とでも言おうか)。
他者のどの部位、どの深さにでも自身の5部位を上手く密着させれば、その密着部を介して自他が連結する。

対して、他部位にある浅筋膜の役割は何か?
それは滑走によって外圧(触れられる、押されるなど、外からの圧迫)を分散し、かわすことだ。
ちなみに、内圧(姿勢、動作など、筋肉による内からの圧迫)に対しては、同方向へ集中させる。


【触覚の分類】
方向性: 触れる/触れられる
様態: 向かう/迎える
部位: 両手掌、両足底、顔面(浅筋膜なし)/他部位(浅筋膜あり)
効果: 密着(吸盤効果)/滑走(かわし効果)


お知らせ
「一から始める触察解剖学」セミナーへのご参加をお申込み下さった皆様へ。
オープンパスからの返信がない場合は、大変お手数をおかけいたしますが、openpathshinjyuku★live.jpのアドレスもお試し下さい(★を@マークに変えて下さい)。
詳細はこちら↓でご覧下さい。
2015年5月〜8月の「一から始める触察解剖学」の隔週セミナー情報
皆様のご参加を楽しみにお待ちしております。
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2015年04月10日

痛みとの戦いでは、心-身の解放が合言葉となる/線維筋痛症と診断されたクライアントとのセッションの後に

彼女は、線維筋痛症と診断された。
彼女にとって、身体が自分のものだという実感は、微かな記憶となっていた。
過度の緊張と痛みが、身体に対する疎外感を生じさせていた。
戦く身体を、自分で制御できるとは思えなかった。
手足などの身体の末端は、自分のものとは感じられず、血は通っていないかのようだった。
それらの部位は痙攣し、あるいは硬直し、体温は低下していた。

思うに、私が行ったのは、身体を取り戻すのを手伝うことだった。
長い道程だったが、筋肉は弛緩し、痛みと硬結は解消し、血は通い始め、体温は上昇した。
やがて、身体に対する所有感が戻ってきた。

痛みは、身体の自由を奪うだけでなく、心をも拘束する。
心身は引き裂かれ、制御不能となり、生活は脅かされる。
だから、痛みとの戦いでは、心-身の解放が合言葉となる。

痛みは、伝達路を利用して、至るところに出現し、逃走する。
しかし、痛みがどこに出現しようと、どこに隠れようと、そこは自分自身の土地なのだ。
痛みを追跡するのでなく、私たちは、その土地を耕し、養うことから始めなければならない。
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2015年04月01日

ソマティクス再考:一人称の「からだ」/村川治彦氏の論文

以下は、私が初めてソマティクスに関して書いた記事である。
2005年11月11日の記事なので、9年以上前に書いたものだ。
書いたと言っても、論文の要約にすぎない。
著者の村川氏は、ソマティクスの研究者である。

この論文に影響を受けて、ソマティクスの研究を始めたのであるが・・・
当時を振り返ってみたいと思った。



村川治彦 2003 一隅を照らす光を集める ―オウム事件以後の一人称の「からだ」の探求に人間性心理学は何ができるか― 人間性心理学研究,21,43−52.


1.オウム事件が投げかけた課題

現代においては、自らの生きる意味を捉えなおそうとする行為が困難になってしまった。そうした行為の際にかつて拠り所となっていた様々な枠組が機能しなくなっている。人間を物質に還元して捉える近代科学は、人間が存在する意味を教えない。一方、そうした近代科学の成功によって、伝統的な宗教の価値体系は、科学的視点の下位に押しやられてしまった。こうした現状に対し、宗教でも客観性に偏重する自然科学でもない、独自の視点と方法で人間を模索してきた人間性心理学が果たせる役割は大きいであろう。


2.人間性心理学と「からだ」

人間性心理学は、行動主義心理学やフロイト派の精神分析が見失った、人間を全体性として探求するという知的関心の中から生まれてきた。人間性心理学が、単に理論的・知的に人間を探求するに留まらず、個々人が実践的・体験的に自らを探求するアプローチにまで拡大したのは、同じ時期により大きな大衆運動として始まったヒューマン・ポテンシャル運動の影響によるものであった。
ヒューマン・ポテンシャル運動では、様々な身体へのアプローチが行なわれていたが、それらは当初ボディワークと総称されていた。それに対しトマス・ハナは、全体としての「からだ」に対する独自のアプローチであることを強調するためにソマティクス(Somatics)という呼称を生み出した。ハナは客体としての身体と主体としての「からだ」の違いを、「人間が外側から、すなわち三人称の観点から観察されたとき、人間の身体(body)という現象が知覚される。しかし、この同じ人間が自らの固有感覚(proprioceptive sense)という一人称の観点から観察されるとき、カテゴリーとして異なる現象、すなわち人間の『からだ』(soma)が知覚される」と表現し、ソマティクスを「一人称の知覚で内側から捉えた身体としての『からだ』を探求する分野である」と定義した。
ソマティクスの代表的なアプローチとしては、センサリー・アウェアネス、アレキサンダー・テクニック、ロルフィング、フェルデンクライス、ライヒアン・セラピー、ロミセラピー、コンティニュアム、ボディマインドセンタリング、オーセンティック・ムーヴメント、フォーカシング、ハコミ・セラピー、ローゼンワーク、プロセス指向心理学などがある。
ソマティクスの特徴は、治療の対象としての他者の身体に向かう前に、自らの「からだ」を手がかりにした探求を大前提としている点にある。ソマティクスと同じ「からだ」の探求として生まれたアプローチでも、カイロプラクティクやオステオパシーなどでは、西洋医学と同様に身体は客体として対象化されており、治療者自身の「からだ」は問題とならない。これらのアプローチは、西洋医学と同居するために本来のスピリチュアルな出自を捨て、西洋医学的身体観(すなわち解剖学に基づく機械的身体)を採用し、医学と同じ客体化された身体(body)を扱う療法として社会的地位を確立したのである。
これに対してソマティクスのアプローチは、まず自らの「からだ」を通して人間性や身体と心の関係を探っていくことを大前提とする。一見多様なソマティクスの実践家たちは、「からだ」の経験こそが人間のアイデアや価値、感情、スピリチュアルな関わりの母胎となるという共通の認識を持ち、自然科学モデルに基づく心理学や宗教とは異なるところで人間性を探求する実践を重ねてきた。それは言い換えるなら、「一人称の科学」の具体的方法を提供するものであり、ソマティクスのアプローチは、西洋近代医学的な意味での治療を目的とするのでもなく、また伝統的宗教の修行法でもない、新しい一人称の「からだ」の探索であり、ポストオウム時代の私たちが生きる意味、人間性を探求していく一つのモデルを提供してくれる。
人間性心理学は、身体性を重視する要素をソマティクスから取り入れ、「身体と心の統合」を実践する様々な方法を開発してきたのである。


3.主体性を守る三つの視点

近代自我の確立を目指す西洋で独自の道を歩んできたソマティクスは、一人称の「からだ」の探求において、主体性を失わず自由な探求を進めていく方法に関して東洋にはない重要な知恵を育んできた。村川氏は、一人称の「からだ」の体験を追及する際にいかにすれば主体性を失わないかについて、ソマティクス研究家であるドン・ハンロン・ジョンソンが提示する三つの視点を紹介している。ジョンソンは、この分野のパイオニアの声を集め、他の分野の研究者たちとの協同研究の基礎を築いてきた。
ジョンソンが提示する一つ目の視点は、身体に働きかけることで自らが「からだ」の主体であるという感覚を育てる「正当性の技術(Technology of Authenticity)」と、反対にそうした主体としての感覚を失ってしまう方向へと導く「疎外の技術(Technology of Alienation)」との区別である。
身体技法を学ぶ場合、それを実践する人が、自らの感受性を高めより豊かな知識と自らへの肯定感を深める技法のあり方と、実践する人が、外的に与えられた目的を達成することに必死になるあまり、自らの体験自体にほとんど価値を置かなくなってしまう技法のあり方(そこには罪悪感、自己否定感が忍び込む)とを区別することが重要である。
二つ目は、一人称の「からだ」を探る多様なアプローチを考える上で、それぞれのアプローチが持つ原理と技法とを区別する視点である。ここで言う原理とは「ある発見へと導く源」であり、技法はそうした原理を体験するための方法である。
原理を体得するために、それぞれのアプローチは様々な具体的技法を開発してきた。しかし、そうした技法上の違いが強調されすぎると、それぞれのアプローチの独自性だけが強調されてしまう。それに対して、技法が生まれてきた原理のレベルに注目すれば、異なるアプローチでも共通の基盤があることが認識でき、対話が可能になる。
ソマティクスにおいては、すべての技法の上位に西洋が発達させてきた「自由な探求」の原理があり、そのことが技法を学ぶ上で権威に盲従する危険性を防いでいる。特定個人の権威を否定し、「自由な探求」を原理とする姿勢は、アメリカにいるソマティクスの創設者たちの共通認識でもある。
一人称の「からだ」の探求において主体性を失わないための三つめの視点は、地図と領域とを混同しないことである。「からだ」での体験は、意識や言葉以前の全体的なものであるが、私たちはそうした体験から我に返ったとき、その体験の意味づけを求める。他者に対して、あるいは何よりも自分自身に対して言葉で説明しようとする。そうした意味づけによって、体験を理解し安心できるからである。
「からだ」の探求において未知の体験に出会ったとき、私たちはその体験の意味を即座に求めすぎるあまり、外の権威に頼ってしまう。しかし、そうした外的な意味づけは、体験という領域をあらかじめ与えられた地図と混同することにつながり、その混同は必然的に体験者の主体性を奪ってしまう。
一人称の「からだ」の体験を探る際には、他の地図を参考にしながらも、最終的には一人一人が自分の地図を作ることが大切である。それを可能にするには、まず様々なアプローチのパイオニアや熟練者たちが、原理と技法を区別した上で、それぞれの地図をどのようにして作ったかという基本的な情報を公開し、共通の場で照合検討していくことが必要になる。現在、一人称の「からだ」の探求においてそれぞれ独自の地図を作ってきたソマティクスの実践家たちは、互いにそれぞれの地図を比較、照合する基礎作業を積極的に進めている。


4.「からだ」の探求をどう共有するか

人間性心理学者たちは、物理学に範を置く実証主義科学の方法論の限界を乗り越えようと、1970年代から人間科学としての独自の方法論を模索してきた。現象学、解釈学などの伝統を基盤にした近年の人間科学の発達は、研究対象の定義、研究方法の提示、現象の観察といった手続きを経て、人間科学独自の基本データの蓄積を行なう方法を編み出してきた。こうした人間科学の方法論に基づく研究は、瞑想体験や痛みの体験を始め「からだ」を探求する様々な領域で成果をあげているが、それでもまだ十分に解決されていない二つの点がある。一つは体験を言葉にする際の問題、もう一つは研究成果の検証の問題である。
前者に対しては、新たな手がかりを与えてくれるものとして、ユージン・ジェンドリンの哲学がある。「からだ」の探求者の体験を言葉にする際に、言葉が体験過程を進めるように、インタビュアーと体験者が言葉をフェルトセンス(特定の問題や状況についての「からだ」の感覚)に戻して確かめながら対話を進めていくことが重要である。
後者の問題を考えるにあたっては、科学の営為を客観性の追求ではなく「自ら知っているものを他人にいかにして発見させるか」という知的探求の出発点に戻すことが大切である。そうすれば、研究成果の判断基準を、抽象的な客観的真理とそれに基づく有効性から、同じ「からだ」の探求を行なう協同研究者にどれほど意味のある形で正確に提示されているかという共有可能性に置き換えることができる。


5.さいごに

伝統的宗教がその力を失い、一方で西洋近代の諸価値の行き詰まりが顕著になっている現代社会において、人間とは何か、生きている意味とは何かというスピリチュアルな問いを真剣に探求しようとする人々が増えている。そうした人々がオウムのような道に迷い込むことなく、より開かれた「正しい」方向に進んでいくためには、互いの体験を検証し合える協同作業のための開かれた場が必要である。この30年間、ソマティクスや人間性心理学は、狭く閉じ込められ体系としての宗教でもなく、人間を物質に還元してしまう自然科学でもない第三の道として、そうした場を提供することを模索してきた。
日本には「一隅を照らす」という素晴らしい言葉がある。一人称の「からだ」の探求を行ない、それぞれの地図を頼りに一隅を照らす努力を続けてきた大勢の人々がいる。一つの大きな光で部屋全体を照らし出す時代が去った今、日本で一隅を照らし続けている人々に呼びかけ、地球というさらに大きな部屋を明るく照らしていくために、それぞれの掲げている光を皆で分かち合うことかが求められている。「からだ」とスピリチュアリティの探求に人間性心理学が果たせる役割があるとすれば、そうした呼びかけにこそあるのではないであろうか。
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