この世界に起こるすべてのことに意味があるとは、私は考えることはできない。何の罪もない人が、たまたまその場に居合わせたというだけで暴漢に刺されるとか、若くして病に倒れるということが、それ自体で何か意味があると思うことは難しい。あまりに理不尽なことだからである。
自分の価値は他者からの評価に依存しない。あなたはだめな人ね、といわれたからといって、そのような他者からの評価によって自分がだめな人になるわけではない。反対に、他者が自分を高く評価したからといって、その評価によって自分の価値が高くなるのではない。
叱るということに、怒りの感情が伴わない人はいないだろう。アドラーは、怒りは人と人を引き離す感情である、といっている。子どもを援助したいと思うのであれば、距離が近くなければできない。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、人の課題にいわば土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こる。親子関係だけではなく、あるゆる対人関係についていえることである。
多くの心理学は決定論に立っている。神経症の症状や問題行動には原因があって、原因となる過去の出来事や外的な事象がそれらを引き起こすと考えれば、その原因を除去する以外には、治療の手だてはないことになるが、そのようなことは不可能である。
人は他者から離れて生きられず、その意味で、人はこの世界に属しこの世界の一部だが、世界の中心にいるわけではないので、世界あるいは他者から当然のこととして与えられるわけではない。
人が一人では生きられないという時、そのことの意味は人が弱いからということよりも、人はその本質において初めから他者の存在を前提としており、他者と共にあることで、人は「人間」になれるということである。
他者のことはわからない、と思って、そのことを前提に人を理解することに努める方が、他者の理解に近づく。わかっていると思っていたら、自分の理解が誤っているということすら思いつかないことになり、他者を理解できないだろう。
他の人の気持ちや考えがわかるべきだという人は、必ず同じことを他者にも要求する。即ち、他の人も自分が何を思い感じているかを、自分が言葉を発しなくてもわかるべきだと考えるのだが、言葉を発しない限り、自分の思い、考えが人にわかるはずはない。
人は、自分が意味づけした世界にしか生きることはできない。しかし、その意味づけがあまりに私的なものであれば、他者との共生は困難になる。
何かをする、あるいはしないという目的がまずあって、その目的を達成する手段を考え出す。怒りという感情が私たちを後ろから押して支配するのではなく、他の人に自分のいうことをきかせようとして怒りを使う。
人は同じ経験をしたからといって、誰もが同じようになるわけではない。同じ経験をしてもその経験に異なった意味づけをするからである。過去の経験や、目下置かれている状況についても意味づけの仕方は人によって異なる。
アドラーが語る言葉は、時に厳しく響くが、しかし、今生きづらいと思っている人があれば、そのことの原因を過去に遡って探るのではなく、これからどうすればいいかを語りかける希望の言葉である。
過去の出来事に今の問題の原因を求めてみたとしても、それで問題が解消するわけではない。「問題」をなんとかしようとするなら、これからどうすればいいのか考えていくしかない。
2013年04月16日
2013年04月15日
岸見一郎著『困った時のアドラー心理学』より
まずこれは誰の課題なのかということを見極める必要があります。誰の課題かわからなくなってしまっていて、自分の課題ではないのに他の人の課題に土足で踏み込んだり、自分の課題を他の人に解決させようとして、対人関係を悪くしています。
自分がたとえ黙っていても他の人は自分が何を考え、感じているかわかってくれて当然と思う人がいます。そのような人は、他の人の考えをその人が黙っていてもわかるべきだと、思いやりや気配りが大切だというのですが、同じことを他の人にも要求するので話は面倒なことになります。
自分の信念に従って自由に生きているからこそ、自分のことを悪くいう人がいるのです。だから、自分のことを嫌う人がいるということは、自分が自由に生きているということの証であり、自由に生きているということの代償ですから、それくらいのことはしかたありません。
前の日にいやなことをいわれたかもしれないけど、でも、今日同じことを今目の前にいるこの人がいう、あるいは、するとは限らないわけです。そう思って、その人と初めて会う人のようにその日を始めるのです。
対人関係における信頼というのは、信じる根拠がある時にだけ信じるのとは違って、無条件で信じる、あるいは、信じる根拠がない時にこそ信じるということです。アドラー心理学では無条件に信じることを「信頼」といい、信じる根拠がある時にだけ信じるという意味の「信用」と区別しています。
他の人は自分とは違う考え方、感じ方をしていることがわかっている人とは対人関係上のトラブルは起こりませんが、自分が思い感じているのと同じように相手も必ず考え、感じているはずだと信じて疑わない人との関係はやっかいなものになります。
他の人の自分についての評価は、その人の考えにすぎないのであって、自分の価値そのものには何の関係もない…。「あなたはいやな人ね」といわれてうれしい人はいないでしょうが、そんなふうにいわれたことで自分がいやな人になるわけではありません。
ことさら優れていないといけないなどと思わずに、普通である勇気を持ってほしいのです。この勇気を持てない人は特別であろうとします。特別優れていなければならないと考えるか、特別に悪くならなければいけないと感じるかのどちらかです。
人はいわば真空の中で生きているのではなく、必ず対人関係の中で生きています。私たちの言動は他者の存在を前提とし、他者へ影響を与え、何らかの反応を他者から引き出します。
自分がたとえ黙っていても他の人は自分が何を考え、感じているかわかってくれて当然と思う人がいます。そのような人は、他の人の考えをその人が黙っていてもわかるべきだと、思いやりや気配りが大切だというのですが、同じことを他の人にも要求するので話は面倒なことになります。
自分の信念に従って自由に生きているからこそ、自分のことを悪くいう人がいるのです。だから、自分のことを嫌う人がいるということは、自分が自由に生きているということの証であり、自由に生きているということの代償ですから、それくらいのことはしかたありません。
前の日にいやなことをいわれたかもしれないけど、でも、今日同じことを今目の前にいるこの人がいう、あるいは、するとは限らないわけです。そう思って、その人と初めて会う人のようにその日を始めるのです。
対人関係における信頼というのは、信じる根拠がある時にだけ信じるのとは違って、無条件で信じる、あるいは、信じる根拠がない時にこそ信じるということです。アドラー心理学では無条件に信じることを「信頼」といい、信じる根拠がある時にだけ信じるという意味の「信用」と区別しています。
他の人は自分とは違う考え方、感じ方をしていることがわかっている人とは対人関係上のトラブルは起こりませんが、自分が思い感じているのと同じように相手も必ず考え、感じているはずだと信じて疑わない人との関係はやっかいなものになります。
他の人の自分についての評価は、その人の考えにすぎないのであって、自分の価値そのものには何の関係もない…。「あなたはいやな人ね」といわれてうれしい人はいないでしょうが、そんなふうにいわれたことで自分がいやな人になるわけではありません。
ことさら優れていないといけないなどと思わずに、普通である勇気を持ってほしいのです。この勇気を持てない人は特別であろうとします。特別優れていなければならないと考えるか、特別に悪くならなければいけないと感じるかのどちらかです。
人はいわば真空の中で生きているのではなく、必ず対人関係の中で生きています。私たちの言動は他者の存在を前提とし、他者へ影響を与え、何らかの反応を他者から引き出します。
2013年04月07日
竹井仁著『触診機能解剖カラーアトラス』より
小円筋と棘下筋の短縮や硬化があると、背臥位の肩90°外転位での内旋で、肩甲骨が代償的に前傾する。前傾を防ぐと外旋筋群の短縮が明らかになる。外旋筋の短縮は、上腕骨頭の過度な前方と上方滑りの一因となる。上腕骨頭の後方滑りの制限と過度な前方滑りは、インピンジメント症候群の要因となる。後方関節包の伸張性の低下は屈曲時のインピンジメントの一因になる。
小円筋と大円筋、上腕三頭筋長頭、上腕骨で囲まれた部分を外側腋窩隙といい、腋窩神経と後上腕回旋動・静脈が通る。小円筋と大円筋、上腕三頭筋長頭で囲まれた部分は内側腋窩といい、肩甲回旋動・静脈が通り、肩甲下神経が走る(通り抜けない)。
棘下筋と小円筋は、棘上筋とともに上腕骨頭を下制させる主要な外旋筋である。…三角筋後部線維は強力な外旋筋であり、棘下筋や小円筋が弱いと、上腕骨頭の上方滑りを引き起こす。
被検者が肩関節を外転するとき、三角筋の活動が優位になると回旋筋腱板 rotator cuff(棘上筋・棘下筋・小円筋・肩甲下筋)による下方への牽引が不足し、上腕骨頭の上方滑りあるいは肩峰とのインピンジメント(衝突)を生じる場合がよくある。同じ被検者が上腕骨を屈曲した場合には、屈曲時の前部線維の活動量が外転時の三角筋全体の1/3程度なので、運動障害は外転時よりはっきりと現れない。
三角筋は、強力な筋であり、安静位から上腕骨頭を肩峰の方へ牽引する。したがって、上腕骨頭を下制する筋群、主に棘上筋、棘下筋、小円筋と肩甲下筋が、三角筋による近位への牽引力を適切に相殺する必要がある。
肩関節内旋の際、大胸筋は肩甲下筋よりも優位に働きやすくなる。肩甲下筋は骨頭を後方に滑らせながら内旋するが、大胸筋は骨頭を前方に引きながら内旋する。大胸筋が短縮したり優位に働くと、大胸筋の活動は上腕骨頭の過度な前方滑りを引き起こす原因となる。
広背筋が短縮すると、肩屈曲可動域が制限される。さらに、腹筋の緊張が不足している場合には、代償的に腰椎は伸展する。腰椎伸展時に腰痛を訴える患者の広背筋が短縮または硬縮しており、その患者が頭部以上の高さのものにリーチ動作をするとやはり腰痛を引き起こす。
…腹直筋が外腹斜筋よりも優位になると、しばしば胸部の下制を伴う。このような患者に外腹斜筋の運動を行わせると、外腹斜筋の収縮が困難で、胸部の下制あるいは体幹の軽い屈曲を伴い、腹直筋の収縮が顕著に早くから起こる。
開口は、はじめに外側翼突筋が下顎頭を前に引き、次いで下顎角近くの回転運動の中心の周りを下顎骨が回って行われる。回転運動のはじめには、顎舌骨筋、顎二腹筋、オトガイ舌骨筋が働く。
鼠径靭帯の背側は、腸恥筋膜弓で2つの間隙に分けられる。外側の筋裂孔は腸腰筋(大・小腰筋、腸骨筋)と大腿神経が通り、内側の血管裂孔は大腿動静脈とリンパ管が通る。
肩甲下筋と関節包は、肩甲上腕関節の前方の安定性を与えている。また、肩甲下筋は、骨頭を後方へ引く作用をするので、上腕骨頭の前方・上方滑りを引き起こす筋群に拮抗する作用を持つ。…内旋筋としては、大胸筋と広背筋のように大きく強力な筋があるので、しばしば肩甲下筋の活動は劣勢になり、結果として上腕骨頭の過度な前方滑りが生じ、インピンジメント症候群の前兆となる。
腹横筋は胸腰筋膜に付着しているので、その収縮は腰椎の安定化にも寄与する。…腹横筋は、立位姿勢で上下肢を動かす際、姿勢保持のために働く第一の腹筋である。
外腹斜筋の線維の走行は基本的には外側上後方から内側下前方に向かうが、下部の3本の肋骨からくる線維は腸骨稜の外唇に対してほぼ垂直に走る。また、起始部は第5−9肋骨の間では前鋸筋の筋尖と、第10−12肋骨の間では広背筋の筋尖とかみ合わさる。
腹直筋は胸骨に付着しているため、この筋の短縮あるいは硬化は、胸部陥没( depressed chest )および胸椎後彎症の一因となる。
腹直筋は腹直筋鞘 rectus sheath(外腹斜筋と内腹斜筋および腹横筋の腱膜によって形成される)に包まれているが、筋膜隙によって筋は鞘と隔てられているので、収縮運動が制限されることはない。また、腹直筋鞘は他の腹筋群の停止部でもあるため、他の腹筋が活動すれば腹直筋も活動する。
小円筋と大円筋、上腕三頭筋長頭、上腕骨で囲まれた部分を外側腋窩隙といい、腋窩神経と後上腕回旋動・静脈が通る。小円筋と大円筋、上腕三頭筋長頭で囲まれた部分は内側腋窩といい、肩甲回旋動・静脈が通り、肩甲下神経が走る(通り抜けない)。
棘下筋と小円筋は、棘上筋とともに上腕骨頭を下制させる主要な外旋筋である。…三角筋後部線維は強力な外旋筋であり、棘下筋や小円筋が弱いと、上腕骨頭の上方滑りを引き起こす。
被検者が肩関節を外転するとき、三角筋の活動が優位になると回旋筋腱板 rotator cuff(棘上筋・棘下筋・小円筋・肩甲下筋)による下方への牽引が不足し、上腕骨頭の上方滑りあるいは肩峰とのインピンジメント(衝突)を生じる場合がよくある。同じ被検者が上腕骨を屈曲した場合には、屈曲時の前部線維の活動量が外転時の三角筋全体の1/3程度なので、運動障害は外転時よりはっきりと現れない。
三角筋は、強力な筋であり、安静位から上腕骨頭を肩峰の方へ牽引する。したがって、上腕骨頭を下制する筋群、主に棘上筋、棘下筋、小円筋と肩甲下筋が、三角筋による近位への牽引力を適切に相殺する必要がある。
肩関節内旋の際、大胸筋は肩甲下筋よりも優位に働きやすくなる。肩甲下筋は骨頭を後方に滑らせながら内旋するが、大胸筋は骨頭を前方に引きながら内旋する。大胸筋が短縮したり優位に働くと、大胸筋の活動は上腕骨頭の過度な前方滑りを引き起こす原因となる。
広背筋が短縮すると、肩屈曲可動域が制限される。さらに、腹筋の緊張が不足している場合には、代償的に腰椎は伸展する。腰椎伸展時に腰痛を訴える患者の広背筋が短縮または硬縮しており、その患者が頭部以上の高さのものにリーチ動作をするとやはり腰痛を引き起こす。
…腹直筋が外腹斜筋よりも優位になると、しばしば胸部の下制を伴う。このような患者に外腹斜筋の運動を行わせると、外腹斜筋の収縮が困難で、胸部の下制あるいは体幹の軽い屈曲を伴い、腹直筋の収縮が顕著に早くから起こる。
開口は、はじめに外側翼突筋が下顎頭を前に引き、次いで下顎角近くの回転運動の中心の周りを下顎骨が回って行われる。回転運動のはじめには、顎舌骨筋、顎二腹筋、オトガイ舌骨筋が働く。
鼠径靭帯の背側は、腸恥筋膜弓で2つの間隙に分けられる。外側の筋裂孔は腸腰筋(大・小腰筋、腸骨筋)と大腿神経が通り、内側の血管裂孔は大腿動静脈とリンパ管が通る。
肩甲下筋と関節包は、肩甲上腕関節の前方の安定性を与えている。また、肩甲下筋は、骨頭を後方へ引く作用をするので、上腕骨頭の前方・上方滑りを引き起こす筋群に拮抗する作用を持つ。…内旋筋としては、大胸筋と広背筋のように大きく強力な筋があるので、しばしば肩甲下筋の活動は劣勢になり、結果として上腕骨頭の過度な前方滑りが生じ、インピンジメント症候群の前兆となる。
腹横筋は胸腰筋膜に付着しているので、その収縮は腰椎の安定化にも寄与する。…腹横筋は、立位姿勢で上下肢を動かす際、姿勢保持のために働く第一の腹筋である。
外腹斜筋の線維の走行は基本的には外側上後方から内側下前方に向かうが、下部の3本の肋骨からくる線維は腸骨稜の外唇に対してほぼ垂直に走る。また、起始部は第5−9肋骨の間では前鋸筋の筋尖と、第10−12肋骨の間では広背筋の筋尖とかみ合わさる。
腹直筋は胸骨に付着しているため、この筋の短縮あるいは硬化は、胸部陥没( depressed chest )および胸椎後彎症の一因となる。
腹直筋は腹直筋鞘 rectus sheath(外腹斜筋と内腹斜筋および腹横筋の腱膜によって形成される)に包まれているが、筋膜隙によって筋は鞘と隔てられているので、収縮運動が制限されることはない。また、腹直筋鞘は他の腹筋群の停止部でもあるため、他の腹筋が活動すれば腹直筋も活動する。
2013年04月05日
ジョセフ・E・マスコリーノ著/丸山仁司訳『筋骨格系の触診マニュアル』より
触診は手で触れて行う診察だが、対象筋の位置を特定するには視診も有効な手段である。…対象筋の触診を試みるときは、まずよく見て、それから筋肉に触診手技を置いて触知する。
触診は常に行う。患者に触れているときは常に触診すべきである。これは、評価セッションにおいてだけでなく、治療セッションにおいても当てはまる。あまりに多くのセラピストが、セッションの中で触診と治療とを別のものとして完全に切り離して考えている。
より快適に触診圧を患者に適用できるテクニックがある。一般的に、患者に深く安定した呼吸をしてもらいながら患者の組織にゆっくり入ると、深く触診しても患者の快適さを保つことができる。
圧迫が強すぎて非効率になっていないかを確認する練習として、硬い面に親指の腹を5秒から10秒の間強く押しつけてみるとよい。その後すぐに、患者の身体部位を触診してみると、感度が失われていることが分かる。
手と思考が調和した触診を行うには、セラピストは、触診指から入る感覚刺激を解釈し、理解できるだけの時間の余裕を心に持つことが重要である。このためには、触診をゆっくりと行う必要がある。あまり速く動かしたり、患者の身体をあちこち触れ回ったりしていては、効果的で心の通う触診はできない。
西洋医学において最新鋭の診断評価設備が次々を開発される中、触診を行う手が依然としてボディワーカーの主要な評価ツールであるという点は特筆すべきだ。ボディワーカーにとってはむしろ、タッチを通じて情報を集める作業である触診こそが、評価の中核を担っているのである。注意深い触診によって、構造の正確な特定評価を行うことができるボディワーカーは、確実に実施できる効果的な治療プランを作成することができる。
原則として、患者に手を触れる前にまず、触診を行う領域を視覚的に調べることが最も望ましい。手を患者の身体に置いてしまうと、目で確認できたはずの情報が頭に入らなくなる。
患者の組織に触れると一口に言っても、組織に触れることができるのと、近傍のあらゆる組織から対象構造を見分けることができるのとでは全く異なる。セラピストがこれを行うためには、上部、下部、内側、外側あるいは表面や深部といった構造のあらゆる境目を特定できなければならない。
触診は常に行う。患者に触れているときは常に触診すべきである。これは、評価セッションにおいてだけでなく、治療セッションにおいても当てはまる。あまりに多くのセラピストが、セッションの中で触診と治療とを別のものとして完全に切り離して考えている。
より快適に触診圧を患者に適用できるテクニックがある。一般的に、患者に深く安定した呼吸をしてもらいながら患者の組織にゆっくり入ると、深く触診しても患者の快適さを保つことができる。
圧迫が強すぎて非効率になっていないかを確認する練習として、硬い面に親指の腹を5秒から10秒の間強く押しつけてみるとよい。その後すぐに、患者の身体部位を触診してみると、感度が失われていることが分かる。
手と思考が調和した触診を行うには、セラピストは、触診指から入る感覚刺激を解釈し、理解できるだけの時間の余裕を心に持つことが重要である。このためには、触診をゆっくりと行う必要がある。あまり速く動かしたり、患者の身体をあちこち触れ回ったりしていては、効果的で心の通う触診はできない。
西洋医学において最新鋭の診断評価設備が次々を開発される中、触診を行う手が依然としてボディワーカーの主要な評価ツールであるという点は特筆すべきだ。ボディワーカーにとってはむしろ、タッチを通じて情報を集める作業である触診こそが、評価の中核を担っているのである。注意深い触診によって、構造の正確な特定評価を行うことができるボディワーカーは、確実に実施できる効果的な治療プランを作成することができる。
原則として、患者に手を触れる前にまず、触診を行う領域を視覚的に調べることが最も望ましい。手を患者の身体に置いてしまうと、目で確認できたはずの情報が頭に入らなくなる。
患者の組織に触れると一口に言っても、組織に触れることができるのと、近傍のあらゆる組織から対象構造を見分けることができるのとでは全く異なる。セラピストがこれを行うためには、上部、下部、内側、外側あるいは表面や深部といった構造のあらゆる境目を特定できなければならない。
2013年03月19日
中谷宇吉郎著『科学の方法』より
なぜ再現可能の問題だけしか、科学は取り扱い得ないかといえば、科学というものは、あることをいう場合に、それがほんとうか、ほんとうでないかということをいう学問である。それが美しいとか、善いとか悪いとかいうことは、決していわないし、またいうこともできないものである。
自然現象をただあるがままに見ただけでは、手のつけようがない。それでいろいろな方法によって、得られた多くの知識を整理していくのであるが、そのうち一番簡単なものが測定なのである。自然現象を数値であらわして、その数値について、知識を深めていく。これが科学の基礎となっている方法である。
自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。
…多数の例について全般的に見る場合には、科学は非常に強力なものである。しかし全体の中の個の問題、あるいは予期されないことがただ一度起きたというような場合には、案外役に立たない。しかしそれは仕方がないのであって、科学というものは、本来そういう性質の学問なのである。
科学の世界では、よく自然現象とか、自然の実際の姿とか、あるいはその間の法則とかいう言葉が使われるが、これらはすべて人間が見つけるのであって、その点が重要なことである。実態を見つけたといっても、それは科学が見つけた自然の実態である。従って、それは、科学の眼を通じて見た自然の実態なのである。自然そのものは、もっと違ったものであるかもしれないし、たぶんずっと違ったものであろう。
因果律というと、何か原因があって、それと直結して結果があるというふうにとられ易いが、けっきょくのところ、原因とか、あるいは結果とかいうものはないのである。ただ、人間が、ある現象のつらなりを、原因結果的に見て、順序を立てるということにすぎないのである。
…現在の科学の思考形式以外の見方で自然を見れば、その見方で見た、また別の自然の実態というものが見えるはずである。それが現在の科学が捉えている自然の実態とひどくちがっていても、ちっともおかしくはないのである。それでわれわれは、現在のところ、自然科学によって自然の実態を探し求めるといってはいるが、ほんとうのところをいえば、そういう自然の実態を作り上げているのである。
自然現象は非常に複雑なもので、われわれはその実態を決して知ることができない。ただ、その中から、われわれが自分の生活―これは広い意味の生活で、知識を広めるという精神的な面まで入れた広い意味での生活であるが、その中に利用し得るような知識を抜き出していくのである。利用というと語弊があるが、これは実用という意味ではない。われわれの精神生活にマッチするような面を、自然の中から抜き出して、一つ一つ見ていく。その時、科学の場合ならば、科学の眼を通じて見ていくのである。それであっちから見たり、こっちから見たりすることが、実相なのである。
実際のところ、自然界に起こっている現象では、生命現象はもちろんのこと、物質間に起こる簡単なように見える問題でも、厳密にいえば、同じことは決して二度とはくり返して起こらない。そういう現象を、もし条件が全く一様ならば、同じことがくり返して起こるはずであるという見方で、取り扱うのが、科学である。
…科学の限界は、再現可能な問題に限られている。しかし、ほんとうはこの世の中には、再現可能な問題はない。再現可能でないものを、再現可能であるという見方をするには、…現象をいろいろな要素に分けて考えてみるのが便利な方法である。空気の抵抗がなくて、重力だけで落下するのならば、それは重力の加速度で計算される速さで落ちてくる。
分析というのは、一つの連続体のまとまったものである自然現象を、いろいろな要素に人間が分けて考えることである。人間が分けるのであるから、ここに人間的要素がはいってくるわけである。つぎに現象をいくつかの要素に分け、その一つ一つの要素が全部分かった時、それを全体としてまとめたときの現象はどうなるか、という問題が出てくる。
自然科学は、自然の本態と、その中にある法則とを探究する学問である。…しかしその本態とか、法則とかいうものは、あくまでも科学の眼を通じてみた本態であり、また法則である。それで科学の真理は、自然と人間との協同作品である。
自然現象をただあるがままに見ただけでは、手のつけようがない。それでいろいろな方法によって、得られた多くの知識を整理していくのであるが、そのうち一番簡単なものが測定なのである。自然現象を数値であらわして、その数値について、知識を深めていく。これが科学の基礎となっている方法である。
自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。
…多数の例について全般的に見る場合には、科学は非常に強力なものである。しかし全体の中の個の問題、あるいは予期されないことがただ一度起きたというような場合には、案外役に立たない。しかしそれは仕方がないのであって、科学というものは、本来そういう性質の学問なのである。
科学の世界では、よく自然現象とか、自然の実際の姿とか、あるいはその間の法則とかいう言葉が使われるが、これらはすべて人間が見つけるのであって、その点が重要なことである。実態を見つけたといっても、それは科学が見つけた自然の実態である。従って、それは、科学の眼を通じて見た自然の実態なのである。自然そのものは、もっと違ったものであるかもしれないし、たぶんずっと違ったものであろう。
因果律というと、何か原因があって、それと直結して結果があるというふうにとられ易いが、けっきょくのところ、原因とか、あるいは結果とかいうものはないのである。ただ、人間が、ある現象のつらなりを、原因結果的に見て、順序を立てるということにすぎないのである。
…現在の科学の思考形式以外の見方で自然を見れば、その見方で見た、また別の自然の実態というものが見えるはずである。それが現在の科学が捉えている自然の実態とひどくちがっていても、ちっともおかしくはないのである。それでわれわれは、現在のところ、自然科学によって自然の実態を探し求めるといってはいるが、ほんとうのところをいえば、そういう自然の実態を作り上げているのである。
自然現象は非常に複雑なもので、われわれはその実態を決して知ることができない。ただ、その中から、われわれが自分の生活―これは広い意味の生活で、知識を広めるという精神的な面まで入れた広い意味での生活であるが、その中に利用し得るような知識を抜き出していくのである。利用というと語弊があるが、これは実用という意味ではない。われわれの精神生活にマッチするような面を、自然の中から抜き出して、一つ一つ見ていく。その時、科学の場合ならば、科学の眼を通じて見ていくのである。それであっちから見たり、こっちから見たりすることが、実相なのである。
実際のところ、自然界に起こっている現象では、生命現象はもちろんのこと、物質間に起こる簡単なように見える問題でも、厳密にいえば、同じことは決して二度とはくり返して起こらない。そういう現象を、もし条件が全く一様ならば、同じことがくり返して起こるはずであるという見方で、取り扱うのが、科学である。
…科学の限界は、再現可能な問題に限られている。しかし、ほんとうはこの世の中には、再現可能な問題はない。再現可能でないものを、再現可能であるという見方をするには、…現象をいろいろな要素に分けて考えてみるのが便利な方法である。空気の抵抗がなくて、重力だけで落下するのならば、それは重力の加速度で計算される速さで落ちてくる。
分析というのは、一つの連続体のまとまったものである自然現象を、いろいろな要素に人間が分けて考えることである。人間が分けるのであるから、ここに人間的要素がはいってくるわけである。つぎに現象をいくつかの要素に分け、その一つ一つの要素が全部分かった時、それを全体としてまとめたときの現象はどうなるか、という問題が出てくる。
自然科学は、自然の本態と、その中にある法則とを探究する学問である。…しかしその本態とか、法則とかいうものは、あくまでも科学の眼を通じてみた本態であり、また法則である。それで科学の真理は、自然と人間との協同作品である。
2013年03月17日
河村次郎著『情報の形而上学』より(2)
…生命の意味とは、その本質と目的性なのである。だから、生命体がどういう物質から成り立っているかを示したり、生理的プロセスの分子的メカニズムを説明したりしても、生命の意味を説明したことにはならないのである。
…自然的実在性は、いわゆる客観的実在性とは異なった概念であり、主観―客観対置図式から捉えることはできない。つまり、客観的実在性というものが「主観の外」を意味するのに対して、自然的実在性は主観を取り込んだ世界の自己組織性を示唆するのである。
「意味」というものは、世界から切り離された独我論的自己の内面から純粋自己触発によって生じるのではなく、他者とのコミュニケーションを通じて脱自的に形成されるものなのである。つまり、それは情報「交換」を通して創発する社会的機能であり、換言すれば、生活のための道具である。
我々は普通、意識によって捉えられる主観的現象を中心として「心」というものを理解している。それゆえ、主観的表象内容に組み込めない「脳幹部の無意識的情報処理の働き」を提示されても心に親近的なものとは感じない。そこで大脳中心主義の心脳関係論が跳梁する破目になるのである。そして、それは「身体全体と生命」という心身問題にとっての重要な思考案件を見失わせてしまう。
心は、意識の主観的性質からのみ構成されるのではなく、全身の生理活動の目的性をもった秩序形成に密着しており、その意味で生命の無意識的自己組織活動の支配下にある。そして、注意深く自己観察してみると、「意識の主観的働き」と「生理的過程のもつ無意識的心性」の間に相関関係があることが分かる。この相関関係は、二元論者が主張するような心身相互作用ではなく、心身間の明らかな連続性を示唆している。体調と気分の相関はそれを象徴する最も身近な現象である。そして、この相関は、生命の維持という目的性が意識の主観性の最も低い層に現れたものと理解できる。
今日、「心の座は脳である」とする見解が無思慮に受け容れられる傾向にあるが、それは論理的思考や記号的情報処理に偏向した認知主義の悪影響にすぎない。心の本質を考えるためには、むしろ身体全体の生命的自己組織化システム、ならびに環境の中で生きる有機体という契機を深く顧慮すべきである。
先験的意識が最初にあって、それからコミュニケーションに参入し、諸々の社会制度を作り出すのではない。他者との無意識的な共同行動が最初にあって、それに追従するように内面的意識が生じるのである。
そもそも我々の内面的意識の内容を形成するものはすべて外的社会環境から移入されたものである。我々が単独で生み出せるものなど何一つない。ただ個人の認知生活における情報処理のパターン形成が、その人の履歴に左右されて、独特の個性をもつだけなのである。
…人間の身体は生命システムとして平衡から離れた開放的システムであり、社会的ならびに自然的環境と相互作用しつつ、情報とエネルギーを散逸させ、新たな構造を作り、それを自己にフィードバックさせていく。これこそが、まさにエントロピーの増大に逆らって生命的秩序を形成していくということ、簡単に言えば「生きていく」ということなのである。
…有機体的自然観すべてに見られる特徴は、自然が秩序形成のために自己組織化する能動性をもつことを認める点である。これは一見擬人化のように思われるが、それは意識の能動性を過剰評価する人間中心主義の悪しき習慣にすぎない。自分が働かせている意識を中心にもってくると、主体性とか能動性というものが、反省能力をもち知覚対象の現象的質を感得できる「人間的心」にしか帰属できないように思えてくる。
身体は周囲の自然環境と連続しており、それと一体になる形で生命の自己組織化活動を営んでいるのである。この点に着目しそれを深く掘り下げていくと、主観―客観対置図式が虚構であることが分かってくる。有機体的自然学が形相因と目的因を排除してきたのもこれと関係が深い。
我々の周囲にある空間は空虚なものではなくて、すべて情報を含んだ潜勢的ならびに現勢的な励起媒質なのである。その情報も、誰かが意図的に製作したプログラムという性格ではなく、自発的にパターンを生み出すこと、つまり自己組織性を本性としている。
…我々の営む経験は意識のみから成り立っているのではない。それは無意識的認知過程も含んだ広範な現象である。そして、それは意識的経験の広大な背景となっている。つまり意識的反省が始まる以前の身体的認知活動が我々の経験の基盤をなし、その上に意識化された知覚内容が乗っかっているだけなのである。
…我々が意識を働かせて物事を解釈する以前に情報は構造として自然界に備わっているのである。その情報構造の恩恵の下に社会の秩序が形成され、我々の自己意識が生育し、言語や文化が構築されるのである。
…自然的実在性は、いわゆる客観的実在性とは異なった概念であり、主観―客観対置図式から捉えることはできない。つまり、客観的実在性というものが「主観の外」を意味するのに対して、自然的実在性は主観を取り込んだ世界の自己組織性を示唆するのである。
「意味」というものは、世界から切り離された独我論的自己の内面から純粋自己触発によって生じるのではなく、他者とのコミュニケーションを通じて脱自的に形成されるものなのである。つまり、それは情報「交換」を通して創発する社会的機能であり、換言すれば、生活のための道具である。
我々は普通、意識によって捉えられる主観的現象を中心として「心」というものを理解している。それゆえ、主観的表象内容に組み込めない「脳幹部の無意識的情報処理の働き」を提示されても心に親近的なものとは感じない。そこで大脳中心主義の心脳関係論が跳梁する破目になるのである。そして、それは「身体全体と生命」という心身問題にとっての重要な思考案件を見失わせてしまう。
心は、意識の主観的性質からのみ構成されるのではなく、全身の生理活動の目的性をもった秩序形成に密着しており、その意味で生命の無意識的自己組織活動の支配下にある。そして、注意深く自己観察してみると、「意識の主観的働き」と「生理的過程のもつ無意識的心性」の間に相関関係があることが分かる。この相関関係は、二元論者が主張するような心身相互作用ではなく、心身間の明らかな連続性を示唆している。体調と気分の相関はそれを象徴する最も身近な現象である。そして、この相関は、生命の維持という目的性が意識の主観性の最も低い層に現れたものと理解できる。
今日、「心の座は脳である」とする見解が無思慮に受け容れられる傾向にあるが、それは論理的思考や記号的情報処理に偏向した認知主義の悪影響にすぎない。心の本質を考えるためには、むしろ身体全体の生命的自己組織化システム、ならびに環境の中で生きる有機体という契機を深く顧慮すべきである。
先験的意識が最初にあって、それからコミュニケーションに参入し、諸々の社会制度を作り出すのではない。他者との無意識的な共同行動が最初にあって、それに追従するように内面的意識が生じるのである。
そもそも我々の内面的意識の内容を形成するものはすべて外的社会環境から移入されたものである。我々が単独で生み出せるものなど何一つない。ただ個人の認知生活における情報処理のパターン形成が、その人の履歴に左右されて、独特の個性をもつだけなのである。
…人間の身体は生命システムとして平衡から離れた開放的システムであり、社会的ならびに自然的環境と相互作用しつつ、情報とエネルギーを散逸させ、新たな構造を作り、それを自己にフィードバックさせていく。これこそが、まさにエントロピーの増大に逆らって生命的秩序を形成していくということ、簡単に言えば「生きていく」ということなのである。
…有機体的自然観すべてに見られる特徴は、自然が秩序形成のために自己組織化する能動性をもつことを認める点である。これは一見擬人化のように思われるが、それは意識の能動性を過剰評価する人間中心主義の悪しき習慣にすぎない。自分が働かせている意識を中心にもってくると、主体性とか能動性というものが、反省能力をもち知覚対象の現象的質を感得できる「人間的心」にしか帰属できないように思えてくる。
身体は周囲の自然環境と連続しており、それと一体になる形で生命の自己組織化活動を営んでいるのである。この点に着目しそれを深く掘り下げていくと、主観―客観対置図式が虚構であることが分かってくる。有機体的自然学が形相因と目的因を排除してきたのもこれと関係が深い。
我々の周囲にある空間は空虚なものではなくて、すべて情報を含んだ潜勢的ならびに現勢的な励起媒質なのである。その情報も、誰かが意図的に製作したプログラムという性格ではなく、自発的にパターンを生み出すこと、つまり自己組織性を本性としている。
…我々の営む経験は意識のみから成り立っているのではない。それは無意識的認知過程も含んだ広範な現象である。そして、それは意識的経験の広大な背景となっている。つまり意識的反省が始まる以前の身体的認知活動が我々の経験の基盤をなし、その上に意識化された知覚内容が乗っかっているだけなのである。
…我々が意識を働かせて物事を解釈する以前に情報は構造として自然界に備わっているのである。その情報構造の恩恵の下に社会の秩序が形成され、我々の自己意識が生育し、言語や文化が構築されるのである。
2013年03月15日
河村次郎著『情報の形而上学』より
「存在」とはそもそも主観でも客観でもない。それは両者の対立を超えている。認識論における主観−客観対置図式は、存在という基底から派生したマーヤーのヴェール(迷妄の元)である。認識主観に対象への関心を引き起こし、対象には形相を付与することによって意味を励起する「根源的力」、それが主観と客観を包む「場」としての「存在」である。
情報は一般に人間的意味を帯びたメッセージや知識として理解される傾向がある。それゆえ広い意味での主観性の刻印を帯びている。つまり情報は、それを受容し認知するものなしには存在しえない、と考えられてしまうのである。ここには認知者の意識が関わってくる。意味を認取するためには受容者の意識的情報処理が必要だとみなされるからである。
自然的実在性は客観的実在性とは異なった概念であり、後者と違って主観性をも包摂する力を秘めている。主観的観念論によると、意識の関門を通らないものは、その実在性を論じる資格をもたないものと判断される。それに対して自然的実在論によると経験は無意識的要素も含んだものとして了解され、意識による確認機能が過大に評価されることはない。そしてこのことが主観―客観対置図式の道具的性格の看取につながり、ひいては心的―物的という二元論的構図の便宜的性質の認知に導くのである。
我々の認識作業は、内省的意識による確認によってのみ成り立つものではなく、非意識的ないし非内省的行為という生活的要素によっても深く彩られている。普通、内省的意識が作動し始めるのは、行為ないし身体運動が停止したときである。
…先験的意識の傲慢性は、時間の先験的繰上げをしてしまう。ここから、常に心の内容を監視しているのは意識であるという主観的観念論の独断が生じる破目になる。
「経験」は、素朴な概念としては反省的思考と重なったものとして理解され、その中核には主観的意識がでんと控えているかのように思い込まれている。しかし、厳密な哲学的規定からすれば「経験」は、無意識的認知によって彩られており、行動から分離されていない。ただし、主観的意識も一契機として包含するものなので、反省的思考という形態を取ることもできるのである。
遺伝子は分子言語としての生命情報なのである。とすれば、人体は単なる物質ではなく、情報によって形成された生理的システムとみなされるはずである。もっと率直に言えば、人体は情報が形となって表れた物質的システムなのである。これをアリストテレス風に表現すると、DNAという形相が人体の質料的システムに秩序を付与している、ということになる。つまり、我々の身体の物質的組成も生理的機能もすべてこうした形相的「情報」の多面的現れなのである。言うまでもなく、それは精神現象にまで及ぶ。
我々の身体は個々の臓器や組織の単なる複合体ではなく、様々の情報伝達路によって賦活される生理的システムである。自律神経系、免疫系、内分泌系、神経ペプチド系といった伝達経路は、種々の伝達物質を介した情報システムとして身体の生理的活動を自動的に制御している。こうした情報伝達は、すべて生命体の状態依存的な情報のコード化を使ってなされており、ここに心との接点がある。
認識論における主観―客観対置図式は「物の見方」とか「事象の知り方」を整理して理解する際に用いられるものであり、「実在は実際にはどうなっているのか」という存在論的問いに直接適用できない。しかし、我々の素朴な思考姿勢は、認識論的観点をそのまま存在論的問いに応用してしまう。そこで、本来存在論的であるはずの「物」とか「心」という概念ないし事実が、認識論的視点から「客観的なもの」と「主観的なもの」に置き換えられてしまう。つまり、物は客観的事象で心は主観的現象だというわけである。
認識論的視点はたしかに必要だが、物や心の本性は主観や客観という概念では十分に捉えることはできない。それらは、議論を整合的にするための道具、つまり構成概念にすぎないのである。換言すれば、それらは実在するものではなく、実在を把握するための思考の整理役なのである。
心身問題は、本来「実在は実際にはどうなっているのか」という存在論の思考圏内に属するものであり、心身関係を理解し解明する個々の方法が妥当かどうかに関する認識論的議論の彼方にある。もちろん方法論の彫琢のためには認識論的議論は必要だが、最終的決着を下すのは存在論的議論である。
生命は人間中心主義の視点からではなく、自然の自己組織性に基づいて理解されるべきものであろう。もちろん人間の尊厳という観点も重要だが、それが生命全般の尊厳を顧慮しないものなら、環境破壊につながり、生態系のサイクルを乱し、結局は自らを滅ぼしてしまうのである。
そもそも「生きている」という表現は、原子や分子によって構成される物質にはふさわしくない。高度の分子構造をもった物質的組織の複合体たる生物学的生命も、それが「生きている」と言われるのは、どういう分子から成り立っているかという観点からではなく、どのような自己組織性をもって環境や他の生命体と関係を築きつつ活動しているかという点に着目してのことである。
生命体がどのような物質によって構成されているのか、という質料因への問いは、生命の意味的側面には直接関わらない。意味に関わるのは形相因と目的因への問いである。こうした問いは、「なぜ私は存在しているのだろうか」「何のために私は生きているのだろうか」という実存的問いかけに端を発し、さらに他者の生命の価値や生物全般の存在の意味へと敷衍していく。
情報は一般に人間的意味を帯びたメッセージや知識として理解される傾向がある。それゆえ広い意味での主観性の刻印を帯びている。つまり情報は、それを受容し認知するものなしには存在しえない、と考えられてしまうのである。ここには認知者の意識が関わってくる。意味を認取するためには受容者の意識的情報処理が必要だとみなされるからである。
自然的実在性は客観的実在性とは異なった概念であり、後者と違って主観性をも包摂する力を秘めている。主観的観念論によると、意識の関門を通らないものは、その実在性を論じる資格をもたないものと判断される。それに対して自然的実在論によると経験は無意識的要素も含んだものとして了解され、意識による確認機能が過大に評価されることはない。そしてこのことが主観―客観対置図式の道具的性格の看取につながり、ひいては心的―物的という二元論的構図の便宜的性質の認知に導くのである。
我々の認識作業は、内省的意識による確認によってのみ成り立つものではなく、非意識的ないし非内省的行為という生活的要素によっても深く彩られている。普通、内省的意識が作動し始めるのは、行為ないし身体運動が停止したときである。
…先験的意識の傲慢性は、時間の先験的繰上げをしてしまう。ここから、常に心の内容を監視しているのは意識であるという主観的観念論の独断が生じる破目になる。
「経験」は、素朴な概念としては反省的思考と重なったものとして理解され、その中核には主観的意識がでんと控えているかのように思い込まれている。しかし、厳密な哲学的規定からすれば「経験」は、無意識的認知によって彩られており、行動から分離されていない。ただし、主観的意識も一契機として包含するものなので、反省的思考という形態を取ることもできるのである。
遺伝子は分子言語としての生命情報なのである。とすれば、人体は単なる物質ではなく、情報によって形成された生理的システムとみなされるはずである。もっと率直に言えば、人体は情報が形となって表れた物質的システムなのである。これをアリストテレス風に表現すると、DNAという形相が人体の質料的システムに秩序を付与している、ということになる。つまり、我々の身体の物質的組成も生理的機能もすべてこうした形相的「情報」の多面的現れなのである。言うまでもなく、それは精神現象にまで及ぶ。
我々の身体は個々の臓器や組織の単なる複合体ではなく、様々の情報伝達路によって賦活される生理的システムである。自律神経系、免疫系、内分泌系、神経ペプチド系といった伝達経路は、種々の伝達物質を介した情報システムとして身体の生理的活動を自動的に制御している。こうした情報伝達は、すべて生命体の状態依存的な情報のコード化を使ってなされており、ここに心との接点がある。
認識論における主観―客観対置図式は「物の見方」とか「事象の知り方」を整理して理解する際に用いられるものであり、「実在は実際にはどうなっているのか」という存在論的問いに直接適用できない。しかし、我々の素朴な思考姿勢は、認識論的観点をそのまま存在論的問いに応用してしまう。そこで、本来存在論的であるはずの「物」とか「心」という概念ないし事実が、認識論的視点から「客観的なもの」と「主観的なもの」に置き換えられてしまう。つまり、物は客観的事象で心は主観的現象だというわけである。
認識論的視点はたしかに必要だが、物や心の本性は主観や客観という概念では十分に捉えることはできない。それらは、議論を整合的にするための道具、つまり構成概念にすぎないのである。換言すれば、それらは実在するものではなく、実在を把握するための思考の整理役なのである。
心身問題は、本来「実在は実際にはどうなっているのか」という存在論の思考圏内に属するものであり、心身関係を理解し解明する個々の方法が妥当かどうかに関する認識論的議論の彼方にある。もちろん方法論の彫琢のためには認識論的議論は必要だが、最終的決着を下すのは存在論的議論である。
生命は人間中心主義の視点からではなく、自然の自己組織性に基づいて理解されるべきものであろう。もちろん人間の尊厳という観点も重要だが、それが生命全般の尊厳を顧慮しないものなら、環境破壊につながり、生態系のサイクルを乱し、結局は自らを滅ぼしてしまうのである。
そもそも「生きている」という表現は、原子や分子によって構成される物質にはふさわしくない。高度の分子構造をもった物質的組織の複合体たる生物学的生命も、それが「生きている」と言われるのは、どういう分子から成り立っているかという観点からではなく、どのような自己組織性をもって環境や他の生命体と関係を築きつつ活動しているかという点に着目してのことである。
生命体がどのような物質によって構成されているのか、という質料因への問いは、生命の意味的側面には直接関わらない。意味に関わるのは形相因と目的因への問いである。こうした問いは、「なぜ私は存在しているのだろうか」「何のために私は生きているのだろうか」という実存的問いかけに端を発し、さらに他者の生命の価値や生物全般の存在の意味へと敷衍していく。
2013年03月12日
加藤大治著『心の情報処理能力を向上させるための方法』より
「情報処理システムの可塑性」とは、「情報処理システムが、ある情報処理をすると、その情報処理をした回路(神経回路網)が形成・強化され、その情報処理をやめた後も回路が残ること」をいいます。
…鮮明に情報処理(実際にまたはイメージで、造形、書字、発声など)すれば、情報処理した回路を鮮明に残せます。そして、その情報処理を鮮明に再現できるでしょう。反対に、上の空で曖昧に情報処理をすれば、曖昧に情報処理した回路が残り、その情報処理を曖昧にしか再現できないでしょう。
ある情報処理を繰り返し行うと、その後、その情報処理が自動的に(無意識的に)行われるようになります。…「情報処理の自動化」は、情報処理の巧緻性、敏捷性を向上させるために重要です。意志による随意的な情報処理を、精緻に高速に行うことには「限界」があります。
触運動覚は、「自分の身体の姿勢や運動、身体で触った対象を感じる感覚」であり、「自分の身体を動かし、情報をつくり出せる運動」である。
自分の身体に対しての情報の位置、大きさ、形を明確にすると、情報を鮮明に実感できます。
手が届く範囲であれば、手を使い、情報(形・構造)を随意的に把握、操作、表現しやすいでしょう。さらに、手が届く範囲では、触運動覚の経験があります。そのため、手の届く範囲で情報処理(イメージ、記憶など)すれば、それまでの経験も助けになり、情報をより鮮明に、より自在に把握、操作、表現しやすくできるでしょう。
身体(体性感覚と運動)に意識を向けてみましょう。今、どのような姿勢、動きをしていますか。そのことをじっくり感じてみましょう。現実の身体の形態、構造、体性感覚、運動を精密に捉えてみましょう。そして、身体イメージを精密につくり上げていきましょう。(続く)(続き)日常生活でくり返し行い、精密化していきましょう。そうすれば、触運動覚の制御能力が向上し、情報の把握、操作、表現を、精密にできるようになります。
情報処理システムは情報処理をした回路を残す。丁寧に情報処理をすれば、精密で鮮明な情報処理をする回路を残せる。
…鮮明に情報処理(実際にまたはイメージで、造形、書字、発声など)すれば、情報処理した回路を鮮明に残せます。そして、その情報処理を鮮明に再現できるでしょう。反対に、上の空で曖昧に情報処理をすれば、曖昧に情報処理した回路が残り、その情報処理を曖昧にしか再現できないでしょう。
ある情報処理を繰り返し行うと、その後、その情報処理が自動的に(無意識的に)行われるようになります。…「情報処理の自動化」は、情報処理の巧緻性、敏捷性を向上させるために重要です。意志による随意的な情報処理を、精緻に高速に行うことには「限界」があります。
触運動覚は、「自分の身体の姿勢や運動、身体で触った対象を感じる感覚」であり、「自分の身体を動かし、情報をつくり出せる運動」である。
自分の身体に対しての情報の位置、大きさ、形を明確にすると、情報を鮮明に実感できます。
手が届く範囲であれば、手を使い、情報(形・構造)を随意的に把握、操作、表現しやすいでしょう。さらに、手が届く範囲では、触運動覚の経験があります。そのため、手の届く範囲で情報処理(イメージ、記憶など)すれば、それまでの経験も助けになり、情報をより鮮明に、より自在に把握、操作、表現しやすくできるでしょう。
身体(体性感覚と運動)に意識を向けてみましょう。今、どのような姿勢、動きをしていますか。そのことをじっくり感じてみましょう。現実の身体の形態、構造、体性感覚、運動を精密に捉えてみましょう。そして、身体イメージを精密につくり上げていきましょう。(続く)(続き)日常生活でくり返し行い、精密化していきましょう。そうすれば、触運動覚の制御能力が向上し、情報の把握、操作、表現を、精密にできるようになります。
情報処理システムは情報処理をした回路を残す。丁寧に情報処理をすれば、精密で鮮明な情報処理をする回路を残せる。
2013年03月08日
河村次郎著『創発する意識の自然学』より(2)
「我思う、ゆえに我あり」ではなくて「我生きるゆえにたまたま思うこともある」というのが真相なのである。
経験は主観的意識が発動する以前の身体活動的生命現象であって、秩序を無意識裡に生み出す自己組織性という性格をもっているのである。これは動物の本能的行動の延長上にあるもので、意識内在主義的な主観的構成主義や人間中心的な精神主義によってはけっして理解できない存在性格である。
人間の意識は脳内に幽閉された内面的現象に尽きるものではなく、社会的環境へと延び広がった脱自的生活機能である。つまり、それは他者との共存と環境への適応を志向しつつ機能する生命活動の一環なのである。
…人間は単独で生きる生物ではなく、社会的生物として「他者との共存」を本質的契機とする存在である。我々各人は死すべき有限の存在であるが、伝達によって更新される人間社会全体は、個々の死を超えて存続する巨大な有機体なのである。
意識は脳の中に幽閉された内面的現象ではなく、身体的行為を介した環境世界への脱自的居住を根本性格とするエコロジカルな生命現象である。
最初に自覚的な内面的意識の自己確信があるのではなく、社会的意味連関と対人関係の中に投げ込まれた生活的自我の居住的活動ないし身体的行為があるのである。
…私が身体をもつのではなく、私は身体そのものなのである。環境の中で他者や社会事象と相互作用しつつ身体を生きること、すなわち社会的行動がまずあり、それが自己管理的に一人称化されて自覚されるとき「私」という観念が生まれる。
彼(フッサール)にとって「超越論的」とは内面的主観性が外部世界の対象へと「超越」する様式の解明を意味した。そして、こうした姿勢と方法に沿って身体と空間の関係が捉えられる。しかし、こうした方法によって捉えられる身体現象はしょせん身体意識ないし身体感覚であり、身体のもつ有機物質性は全く度外視されている。
ハイデッガーは師フッサールの過度の主観主義を批判して経験の主体を「世界内存在」として捉え直した。「世界内存在」は、主観と客観、内部と外部の二元分割を乗り越えるために考案された概念装置である。彼は、世界を経験するのは内的意識の超越論的主観性ではなく、世界と一体となって生きる実存(事実的生 faktisches Leben)の行為的了解活動だと考えたのである。
現象学における「生きられる身体」という概念が自覚的意識に現れる身体運動の感覚だとしたら、それは大脳の高次機能の反映ということになり、脳幹と脊髄を介して身体全体とつながった神経系の働きを十分顧慮していないものとみなされる。
…人間の意識は真空の独我論的な内面空間から立ち上がる幽霊的現象ではなく、環境の中で身体運動をしつつ他者と相互作用するうちに創発する生命的自然現象である。それは社会文化的因子によって賦活されるものである。
そもそも「私」は常に「私ならざるもの」によって脅かされ、励まされ、暗示され、何か「より広いもの」に向けて誘導されている。
そもそも生命の本質は「死ぬこと」にある。すべての生命個体が無限に生き続けたら生態系は破綻し、生命の連鎖は途絶えてしまう。しかし、近代的自我のせせこましい主観性は、自己の存在に過度にこだわり、自己の死を他者の生に向けて脱自的に捉えることから遠ざかり、生命の大いなる連鎖に対して盲目となってしまう。
「私」という観念ないし意識は、外界と隔絶した自己の内面の奥底から湧き上ってくる超自然的主観性ではなく、人称が成立する以前の他者との身体的触れ合いから次第に自覚される、他者との社会的共同生活のための道具である。
「自己の知覚と意識と思考が確実に、つまり他でありえない仕方で確認し認識したもの」は実は「自己の認識の仕方の確実性」に関わるものではあっても、けっして自然的事実の確認たりえないのである。つまり、主観主義者が揺るぎないものと確信した自己判断が妥当するのは「自己の主観的意識による確認と判断」の範囲を一歩も出ないのである。
死は単なる世代交代であり、「生命の大いなる連鎖」を維持するための脱皮的契機なのである。「私が死を超えて生きる」ということは、私の霊魂が肉体の死後も生き続けるということではなく、自然の大生命が個体の生命の連鎖を維持しつつ、エンテレケイアへの無限の創造的前進を繰り返す、その運動に自己を融解せしめる、ということなのである。
経験は主観的意識が発動する以前の身体活動的生命現象であって、秩序を無意識裡に生み出す自己組織性という性格をもっているのである。これは動物の本能的行動の延長上にあるもので、意識内在主義的な主観的構成主義や人間中心的な精神主義によってはけっして理解できない存在性格である。
人間の意識は脳内に幽閉された内面的現象に尽きるものではなく、社会的環境へと延び広がった脱自的生活機能である。つまり、それは他者との共存と環境への適応を志向しつつ機能する生命活動の一環なのである。
…人間は単独で生きる生物ではなく、社会的生物として「他者との共存」を本質的契機とする存在である。我々各人は死すべき有限の存在であるが、伝達によって更新される人間社会全体は、個々の死を超えて存続する巨大な有機体なのである。
意識は脳の中に幽閉された内面的現象ではなく、身体的行為を介した環境世界への脱自的居住を根本性格とするエコロジカルな生命現象である。
最初に自覚的な内面的意識の自己確信があるのではなく、社会的意味連関と対人関係の中に投げ込まれた生活的自我の居住的活動ないし身体的行為があるのである。
…私が身体をもつのではなく、私は身体そのものなのである。環境の中で他者や社会事象と相互作用しつつ身体を生きること、すなわち社会的行動がまずあり、それが自己管理的に一人称化されて自覚されるとき「私」という観念が生まれる。
彼(フッサール)にとって「超越論的」とは内面的主観性が外部世界の対象へと「超越」する様式の解明を意味した。そして、こうした姿勢と方法に沿って身体と空間の関係が捉えられる。しかし、こうした方法によって捉えられる身体現象はしょせん身体意識ないし身体感覚であり、身体のもつ有機物質性は全く度外視されている。
ハイデッガーは師フッサールの過度の主観主義を批判して経験の主体を「世界内存在」として捉え直した。「世界内存在」は、主観と客観、内部と外部の二元分割を乗り越えるために考案された概念装置である。彼は、世界を経験するのは内的意識の超越論的主観性ではなく、世界と一体となって生きる実存(事実的生 faktisches Leben)の行為的了解活動だと考えたのである。
現象学における「生きられる身体」という概念が自覚的意識に現れる身体運動の感覚だとしたら、それは大脳の高次機能の反映ということになり、脳幹と脊髄を介して身体全体とつながった神経系の働きを十分顧慮していないものとみなされる。
…人間の意識は真空の独我論的な内面空間から立ち上がる幽霊的現象ではなく、環境の中で身体運動をしつつ他者と相互作用するうちに創発する生命的自然現象である。それは社会文化的因子によって賦活されるものである。
そもそも「私」は常に「私ならざるもの」によって脅かされ、励まされ、暗示され、何か「より広いもの」に向けて誘導されている。
そもそも生命の本質は「死ぬこと」にある。すべての生命個体が無限に生き続けたら生態系は破綻し、生命の連鎖は途絶えてしまう。しかし、近代的自我のせせこましい主観性は、自己の存在に過度にこだわり、自己の死を他者の生に向けて脱自的に捉えることから遠ざかり、生命の大いなる連鎖に対して盲目となってしまう。
「私」という観念ないし意識は、外界と隔絶した自己の内面の奥底から湧き上ってくる超自然的主観性ではなく、人称が成立する以前の他者との身体的触れ合いから次第に自覚される、他者との社会的共同生活のための道具である。
「自己の知覚と意識と思考が確実に、つまり他でありえない仕方で確認し認識したもの」は実は「自己の認識の仕方の確実性」に関わるものではあっても、けっして自然的事実の確認たりえないのである。つまり、主観主義者が揺るぎないものと確信した自己判断が妥当するのは「自己の主観的意識による確認と判断」の範囲を一歩も出ないのである。
死は単なる世代交代であり、「生命の大いなる連鎖」を維持するための脱皮的契機なのである。「私が死を超えて生きる」ということは、私の霊魂が肉体の死後も生き続けるということではなく、自然の大生命が個体の生命の連鎖を維持しつつ、エンテレケイアへの無限の創造的前進を繰り返す、その運動に自己を融解せしめる、ということなのである。
タグ:河村次郎 『創発する意識の自然学』
2013年03月05日
河村次郎著『創発する意識の自然学』より
経験論の哲学は基本的に経験が意識を引き起こすと考える。つまり、自我の意識的反省内容に経験が括り込まれる前に、経験は既に生起していたと考えるのである。
自我の主観性が明確に把捉する体験の流れは、あくまで意識野の時間空間的枠内での内省内容であって、それを包む無意識的ないし前意識的要素は排除されている。事後的な気づきによってこうした要素が内省の網によって把捉され、意識的主観性に括り込まれるのである。
経験は、個人の心的内面や皮膚に囲まれた身体の内部で完結するものではなくて、社会や自然という生態的環境へと脱自的に延び広がったものなのである。
意識はモノではなくてプロセスなのであり、脳と頭蓋骨の枠を超えて環境世界に延び広がっているのである。換言すれば、脳は外延をもったモノであるが、意識は外延が環境世界にまで拡散した開放的で流動的なシステムなのである。
意識と脳の関係の本質を理解するためには、意識の主観性が他者との関係から生まれる脱自的性格をもつということ、ならびに意識の主観性の基盤となる脳の神経システムが他者の脳との情報交換(コミュニケーション)を介して構築されるということに目を開かなければならない。
コンピュータのハードウェアの基礎となる電子回路網は製作時から固定されたものであるが、生物としての人間の脳の神経回路網は経験や学習によってその結合様式を可塑的に変化させる。これを脳の神経「可塑性」と言う。そして、それは脳内に一千億個ある神経細胞(ニューロン)間で神経線維の配線の変化によって生まれる性質である。
普通、意識というと個人の経験ないし体験の主観的内容を意味するものと受け取られているが、それは表層に触れているにすぎない。意識の根源的働きは生命活動に密着したものであり、主観性を核とする自覚的意識の辺縁に薄暗く延び広がる無意識的要素をも包含した「経験」を源泉としている。
デカルトからカント、フッサールに至る主観性重視の意識理解は、「生命の道具としての意識」という観点から完全に逸脱し、結果として意識の自然的本性を捉えることができなかった。最初に「我思う」という自覚的意識の主観性があるのではなく、「とにかく生きよう」とする本能的意志があるのだ。しかし、それは全く盲目的なものではなく、整合的な自己組織性をもっている。
我々の意識は、身体の生理活動を質料因とし、環境世界の情報構造ないし意味連関によってその目的性を付与されるものとして、自然に対して開かれている。
意識と自然の一体性を理解する際、身体性が重要な契機となるが、単に意識への身体感覚の現れを記述しただけでは主観主義に終わってしまう。超越論的現象学はこの陥穽にはまりやすい。意識はむしろ現象を超越した物自体の領域にあるのだ。
一切の経験を先験的眼差しで見守る主観としての自我が最初にあるのではなく、世界と自我が有機的に統合してなされる「経験」が最初にあり、反省の結果先験的主観という観点が生じるのである。それゆえ経験の主体は一般に考えられているような意識的自我ではなく、「世界と自我の運動」という生命的事態なのである。
経験は単なる主観的現象ではなく、物理的性格をもった自然現象であり、自己と世界の連動ないし共鳴において生起する。この場合、世界自体が経験的性質をもっている、ということになる。
経験は単なる主観的体験内容ではなく、自然と一体となった生命体の身体的活動から発する生活の機能である。意識の主観的特質は経験という氷山の一角にすぎないのである。
心とは生命体が環境の中で身体を使って行為することそのものなのである。最初に身体的行為ないし社会的行動があり、その後で反省の結果自覚的意識と自我の観念が形成されるのである。
…意識には内容がある。それは脳の外部の環境世界から受容された知覚情報の組織化であり、純粋に内発的なものは何一つない。本人しか知りえず他人がアクセスできない秘密の思念もまた外部由来の知覚情報の組織化にすぎない。
主観と客観、心と身体、精神と物質を峻別する二元論的観点から意識というものを「思考」中心に捉えると、反省的自己意識が生じる前の身体的自我の自然的意識性というものが視野の中に入ってこない。言語を介した思考とそれによって可能となる反省的意識は後発のもので、自己意識の真の源泉は乳幼児期の身体的意識の生命的自然性にある、と言える。
自我の主観性が明確に把捉する体験の流れは、あくまで意識野の時間空間的枠内での内省内容であって、それを包む無意識的ないし前意識的要素は排除されている。事後的な気づきによってこうした要素が内省の網によって把捉され、意識的主観性に括り込まれるのである。
経験は、個人の心的内面や皮膚に囲まれた身体の内部で完結するものではなくて、社会や自然という生態的環境へと脱自的に延び広がったものなのである。
意識はモノではなくてプロセスなのであり、脳と頭蓋骨の枠を超えて環境世界に延び広がっているのである。換言すれば、脳は外延をもったモノであるが、意識は外延が環境世界にまで拡散した開放的で流動的なシステムなのである。
意識と脳の関係の本質を理解するためには、意識の主観性が他者との関係から生まれる脱自的性格をもつということ、ならびに意識の主観性の基盤となる脳の神経システムが他者の脳との情報交換(コミュニケーション)を介して構築されるということに目を開かなければならない。
コンピュータのハードウェアの基礎となる電子回路網は製作時から固定されたものであるが、生物としての人間の脳の神経回路網は経験や学習によってその結合様式を可塑的に変化させる。これを脳の神経「可塑性」と言う。そして、それは脳内に一千億個ある神経細胞(ニューロン)間で神経線維の配線の変化によって生まれる性質である。
普通、意識というと個人の経験ないし体験の主観的内容を意味するものと受け取られているが、それは表層に触れているにすぎない。意識の根源的働きは生命活動に密着したものであり、主観性を核とする自覚的意識の辺縁に薄暗く延び広がる無意識的要素をも包含した「経験」を源泉としている。
デカルトからカント、フッサールに至る主観性重視の意識理解は、「生命の道具としての意識」という観点から完全に逸脱し、結果として意識の自然的本性を捉えることができなかった。最初に「我思う」という自覚的意識の主観性があるのではなく、「とにかく生きよう」とする本能的意志があるのだ。しかし、それは全く盲目的なものではなく、整合的な自己組織性をもっている。
我々の意識は、身体の生理活動を質料因とし、環境世界の情報構造ないし意味連関によってその目的性を付与されるものとして、自然に対して開かれている。
意識と自然の一体性を理解する際、身体性が重要な契機となるが、単に意識への身体感覚の現れを記述しただけでは主観主義に終わってしまう。超越論的現象学はこの陥穽にはまりやすい。意識はむしろ現象を超越した物自体の領域にあるのだ。
一切の経験を先験的眼差しで見守る主観としての自我が最初にあるのではなく、世界と自我が有機的に統合してなされる「経験」が最初にあり、反省の結果先験的主観という観点が生じるのである。それゆえ経験の主体は一般に考えられているような意識的自我ではなく、「世界と自我の運動」という生命的事態なのである。
経験は単なる主観的現象ではなく、物理的性格をもった自然現象であり、自己と世界の連動ないし共鳴において生起する。この場合、世界自体が経験的性質をもっている、ということになる。
経験は単なる主観的体験内容ではなく、自然と一体となった生命体の身体的活動から発する生活の機能である。意識の主観的特質は経験という氷山の一角にすぎないのである。
心とは生命体が環境の中で身体を使って行為することそのものなのである。最初に身体的行為ないし社会的行動があり、その後で反省の結果自覚的意識と自我の観念が形成されるのである。
…意識には内容がある。それは脳の外部の環境世界から受容された知覚情報の組織化であり、純粋に内発的なものは何一つない。本人しか知りえず他人がアクセスできない秘密の思念もまた外部由来の知覚情報の組織化にすぎない。
主観と客観、心と身体、精神と物質を峻別する二元論的観点から意識というものを「思考」中心に捉えると、反省的自己意識が生じる前の身体的自我の自然的意識性というものが視野の中に入ってこない。言語を介した思考とそれによって可能となる反省的意識は後発のもので、自己意識の真の源泉は乳幼児期の身体的意識の生命的自然性にある、と言える。
タグ:河村次郎 『創発する意識の自然学』