2013年03月01日

民主主義とは何なのか

長谷川三千子 2001 民主主義とは何なのか 文春新書

本書では、民主主義(デモクラシー)に対して疑問を投げかけている。
「デモクラシー」という言葉は、ギリシャの民主政「デーモクラティア」から来ているが、それはその名の意味する通り、民衆(デーモス)が力(クラトス)によって支配権を得る体制のことである。
「民主」という言葉が初めて使われたギリシャの時代においても、再び強調されるようになったフランス革命時や現代においても、それは、「われとわれとが戦う病い」(著者)、つまり「コントロールを失った民衆が相争う病い」を正当化させるために拵え上げられた「理窟」にすぎず、どこまでもその病いを引きずり続けるためのイデオロギーである、と著者は主張する。

「民主主義」という言葉は、その正当性が自明のものとしてあり、誰もそれを疑おうとしないが、本書の読者は「民主主義」そのものを深く吟味し直す必要性を感じるであろう。
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2013年02月26日

内海健著『精神科臨床とは何か』より

「私」とはまさに脳の欠陥を補填するために―「ために」というのは正確ではありませんが―「創発」されたものなのです。この「私」ないし自己という審級があるからこそ、脳がきちんと作動するのです。しかしこの虚焦点のような「私」は脳のどこを探しても見つからないこと、それはもはやいうまでもないでしょう。


われわれの主体、われわれの体験は、生命というダイナミックなものと、記号あるいは言語という構造的なものの狭間に生成するものであるということが言えそうです。前者が体験を活性化するのに対し、後者は安定化させるものとして機能するのです。


脳という舞台に起こることは、そのものとしてはばらばらで統制を欠いています。そのままでは経験になりません。経験となるためには、それらが「私」の経験とならなければなりません。…とはいっても、この「私」というのは、事象そのものには何も付け加えるものではありません。実体のない、虚焦点のようなものです。しかし体験は「私」の体験としてまとまらないと、解体してしまいます。


生まれ落ちた時点で、人間の脳は十分作動しません。とくに運動系は、口から咽喉頭にかけての運動を例外として、ほとんど機能していません。おっぱいを飲んだり、泣いたりすることはかろうじてできますが、あとはほとんど有効に作動しないような状態で生まれてくるのです。…それゆえ、他人の助けが、絶対に必要になります。生き延びるためには他者が絶対に必要であるということ、これは単純ですが、きわめて重大なことです。われわれの生をその始まりにおいて、そして最も深く規定する事実であるといえるでしょう。
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2013年02月24日

ハイデガーとサルトルと詩人たち

市原宏祐 1997 ハイデガーとサルトルと詩人たち NHKブックス

ハイデガーの著作にもサルトルの著作にも詩人論がある。両者とも詩に対して深く思いを寄せている。彼らが詩人について論じるとき、哲学書の中では決して表さないような心情を吐露している。本書では彼らの詩人論を手がかりとして、彼らの人間に対する思い、哲学の究極の願いに焦点を当てようとする。

1960年代後半から1970年代前半にかけて、世界の思想的な動きは〈普遍〉から〈個別〉へと移り変わってきた。そうした中で、ハイデガーとサルトルの立場は〈普遍〉でも〈個別〉でもなく、両者を改めて捉え直そうとする視点をもっていた。
彼らの詩人論は、当然そうした立場に関係する。彼らによると、詩人たち(ハイデガーにとってはヘルダーリンであり、サルトルにとってはマラルメやジュネである)は〈個別〉と〈普遍〉を繋げようとする無限の精進の過程を生きるほかはない。そして、詩人(人間と言い換えてもよい)であることの偉大さは、〈普遍〉を完全には体現しえない悲しみに面前しつづけることにある。

終わりに、「詩の次元」という章から「詩人のことば」について書かれた箇所を引用しよう。
「詩人はことばの世界に投げだされている。ことばに包囲されているといってもいい。散文家にとっては、ことばは透明なるものであり、世界のあれこれの事物に導く案内者であった。ところが、詩人にとっては、それはひとつの事物として、不透明なるものである。散文の場合とはちがって、むしろ世界の事物にいたることを妨げる障碍物である。詩人は道具としてのことばではなくて、障碍物としてのことばに囲まれているのだ。」
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2013年02月23日

魔法の方法、コーディネーション運動(過去ブログより再録)

東根明人 宮下桂治 2004 もっともっと運動能力がつく魔法の方法 主婦と生活社

現在、「コーディネーション」という言葉は、スポーツ・トレーニングの世界では普通に使われている。それは、「身体を巧みに動かす能力」のことである。
1970年、旧東ドイツのスポーツ運動学者が「コーディネーション理論」を考案し、その後、長年に渡って研究が進められてきた。現在では、この理論に基づいた「コーディネーション運動」が、様々な種目のスポーツのために数多く考案されている。
コーディネーション運動は、身体の動きをコントロールする情報系・神経系のトレーニングとして位置づけられる。簡単に言うと、身体をスムーズに動かすために、脳の神経回路を作り、学習し、記憶するトレーニングである。

本書では、子供の運動能力を伸ばすための方法として、遊びの形にアレンジされたコーディネーション運動を紹介している。「ゴールデンエイジ」と言われる、8〜12歳くらいの神経系の発達の著しい年代に、幅広く多様な動きのトレーニングを実践することによって、運動を行なう回路がより精密に作られる。そして、その精密な回路が、将来の複雑で高度な技術習得に大いに役立つのである。

コーディネーション能力は、7つの能力に分けて考えることができる。すなわち、「リズム能力」「バランス能力」「変換能力」「反応能力」「連結能力」「定位能力(空間認知能力)」「識別能力(操作能力)」の7つである。ただし、実際の運動では、これらの能力が1つ1つ単独で機能するのではなく、複数の能力が組み合わされ、相互に関連し合いながら行なわれる。
以下に、7つのコーディネーション能力の簡単な説明を本書から抜き書きする。
1.リズム能力: リズム感を養い、動くタイミングを上手につかむ。
2.バランス能力: バランスを正しく保ち、崩れた態勢を立て直す。
3.変換能力: 状況の変化に合わせて、素早く動きを切り替える。
4.反応能力: 合図に素早く反応し、適切に対応する。
5.連結能力: 身体全体をスムーズに動かす。
6.定位能力: 動いているものと自分の位置関係を把握する。
7.識別能力: 道具やスポーツ用具などを上手に操作する。

コーディネーションのトレーニングは、運動をする上で欠かせない神経系や感覚器の機能を高めるものなので、競技スポーツだけでなく、リハビリテーションのために行なうスポーツや、レクリエーション運動としても有効である。とは言え、ただ単純にトレーニングすればよいというものではない。個々人の目的や条件、資質に応じた特性を理解した上で、トレーニング・プログラムを作ることが大切である。
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2013年02月21日

上田閑照著『私とは何か』より

通常、世界内存在としての「我」の「自己・世界」理解は言葉にこめられて貯えられているゆえに、世界は同時に言葉世界でもある。自意識の自我においては、言葉世界は意識に収められ意識は自意識につかまれて統べられており、自我は言葉によって世界を自分の世界として「私」し、差配しようとする。言葉と「我」性の隠れた結託が動いているのである。そして、自我は言葉の網をにぎって世界をとらえようとしつつ、その言葉の網に自我自身がとらえられている。


純粋経験(西田幾多郎)が言葉になる(自覚化される)原初態は、「私は音を聞いている」ではなく、「音が聞こえている」になる。それが「私なき私」なのである。「私は」と言わないで、音が聞こえている場所になっている「私なき私」なのである。


デカルトにおいては方法の整合性と優位性が確保されている。そしてそれは「我」の確立と結びついている。反省の再帰によって知と「我」とが一つになって同時に確実性を獲得する。西田(幾多郎)においても方法なしではない。しかし方法は圧倒される。反省によって求められる確実なものは、反省によって見出されるのではなく、方法を超え反省を破る仕方で方法以前の原始事実が原与される。


(デカルトの)疑って疑ってという方法の遂行に対して、西田(幾多郎)においては、疑うにも疑いようのない直接の知識にしてそのまま事実そのものであるところの純粋経験が提出される。これは疑うという方法によって獲得されたものではない。疑うという方法を圧倒し疑いそのものを断ち切るような仕方で、「疑うに疑い得ない」純粋経験の事実が原与されるのである。


「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」。その刹那によって、通常経験がそのなかでなされる「主観‐客観」の枠がいったん破られて、限りない開けが開かれるとともに、その開けが限りなく満たされている。西田(幾多郎)はこのような純粋経験に真実在の根底と真の自己の根源を見る。


原始の純粋経験を西田(幾多郎)は単純直截に次のように提示する。「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」。「風がざわざわいえば〈ざわざわ〉」が純粋経験である。通常、われわれはこのような「刹那」を知らず、このような「刹那」を飛び越し素通りして、間延びした時間のうちで「私は音を聞いている」「風が吹いている」と言い、これを直接の経験と思っている。しかし「私は音を聞いている」「風が吹いている」というのは、後のことである。


人間の身体の基本姿勢―「身」態であると同時に人間として存在する「姿勢」の具体性でもある基本姿勢として、行・住・坐・臥と言い習わされてきた四者がある。文化を営む人間存在の独特な形態学上の優位性を人間学が「住」(直立の姿勢を保つこと)に置くように、一般的には四者のうちの「住」(直立)に突出した意義が見られてきた。


直立によって単なる環境を抜け超えた「開け」が開かれたが、そのときこの「開け」は人間にとって実は二重になっているのである。すなわち、直立とともに「限りない開け」のうちに、直立した人間の自己中心性による座標軸をめぐっての「限りある開け」(周界)が、人間を中心にしてぐるっと円を描いたごとく成立する。


直立による自己中心性は世界の内に定位するための方法的中心であるとともに、自我性の拠点にもなるが、実は、直立運動そのものはその原初においては自我性への否定の可能性も含んでいたと見ることができる。すなわち、直立によって人間となった人間には、直立という垂直の運動感覚によって、同時に、自分を超えた高みへの感覚…ないし、立ち上がる垂直の運動のうちで反作用的に直立を支える土台…の確かさへのセンス、さらには深みへのセンス、単なる環境を超えた支える大地の深さへのセンスが与えられていたと考えられる。


直立によって世界が人間に開かれると同時に、直立した人間は自分を世界の中心とする。そのような人間主体が世界において「我」と言うのであるから、「我」と言うことと直立とは直接に結びついていると見なければならない。


世界は、そこに現れるもののみが私たち人間にとって意味をもって存在する開かれた場所であるゆえに、世界地平とも言われるが、地平にはまさに見えない「地平の彼方」がある。


形態学的な特徴である「直立」が単なる環境を超えた「世界」を人間に開いた…


人間存在には「何処で」ということが本質的に属している。人間はその基礎構造において場所的存在(西田幾多郎)であり、世界内存在(ハイデッガー)として規定される。それだけに私たちの居る場所が何処かは、私たちの存在の質に関わってくる。


…直立運動そのものはその原初においては自我性への否定の可能性も含んでいたと見ることができる。すなわち、直立によって人間となった人間には、直立という垂直の運動感覚によって、同時に、自分を超えた高みへの感覚(「高きにまします神」あるいは「天にまします神」というような宗教の言葉が出てくるもとにあるセンス)、ないし、立ち上がる垂直の運動のうちで反作用的に直立を支える土台(いわゆる「脚下」)の確かさへのセンス、さらには深みへのセンス、単なる環境を超えた支える大地の深さへのセンスが与えられていたと考えられる。
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2013年02月19日

宇宙飛行/Gの感覚

泉龍太郎 2004 Gの感覚 体育の科学,54,546−551.

地球の生命体はその発生から、等しく地球の重力を受けてきた。1961年にソ連の「ガガーリン」が初めて宇宙を訪れて以来、人類は宇宙飛行によって重力のない環境を経験するようになった。
このエッセイでは、宇宙飛行において長時間に渡って「微小重力」(宇宙ステーションにおける重力は、gが完全にゼロになるわけではないので、こう呼ばれる)環境にさらされたときの感覚について概説している。また、宇宙ステーションで行なわれる運動についても紹介している。
以下、各項目について略説する。

〈重力感知メカニズムと微小重力の影響〉
ヒトは三次元空間の中で、自己の位置、方向、姿勢、および運動を知覚している。その情報は、主として平衡感覚器、視覚、および体性感覚から得られ、脳内で統合されて、ひとつの方向感覚として知覚される。空間識とも呼ばれるこの感覚が、微小重力の影響を受けて、うまく働かなくなる。これが宇宙酔いの、大きな原因のひとつと考えられている。
微小重力の影響で注目すべきことのひとつは、ヒトのとる姿勢が地上とは異なることである。具体的には、手が肩の高さまで上がってきて、背中が丸くなり、膝が曲がり、まるで類人猿のような姿勢となり、かつ体の浮揚感を自覚するようになるという。宇宙飛行の初期には地上と同じ姿勢をとろうとして、頭や手を下げようとし、地上では通常使わない筋肉を使うため、非常に疲れるとの体験報告もされている。また、単に姿勢だけでなく、身長が数センチ伸びるなど、体型も変化するという。

〈視覚と認知〉
重力のない宇宙では、原理的には方向を定める必要はない。しかし、現実には宇宙ステーションでは上下方向が厳密に定められているという。重力が失われても、上下感覚・方向感覚は、ヒトにとって強固なものであるのだ。
宇宙酔いのメカニズムとして、現在4つの仮説が提唱されている。以下のとおりである。
(1)感覚混乱・感覚配置変え説: 日常的に体験しないような感覚刺激を受けて、中枢で情報の混乱が起こる。
(2)体液シフト説: 微小重力環境では体液が頭部に移動するため、頭蓋内圧が亢進する。
(3)耳石機能非対称説: 耳石器の感度にはもともと左右差があるが、微小重力下で耳石器からの入力が減少するため、左右差が顕在化し、平衡感覚や空間識の破綻をきたす。
(4)OTTR説: 微小重力環境では、耳石器に対する刺激は移動感覚のみとなるため、耳石器からの情報を再解釈する必要が生じ、この再解釈の過程で生じてしまう。

〈地上帰還時の問題〉
宇宙滞在が長期化した場合に問題となるのが、地上に帰還した場合の再適応、特に起立耐性の低下である。長期宇宙滞在では、定期的に運動することが義務づけられているが、それでも帰還直後は、平衡感覚障害、歩行失調、血圧調節機構の低下などが見られる。起立耐性低下が著しい場合は、失神の可能性もあるが、地上帰還時に緊急に対応しなければならない場合や、パイロットである場合などは、このような機能低下は致命的な大事故に繋がりかねず、NASAでは、医学的にも非常に重要な課題と位置づけられている。

〈宇宙での運動〉
長期宇宙滞在では1日2時間程度の運動が必要とされている。宇宙で行なう運動の主なものは、体を押さえた状態でのトレッドミルや、自転車こぎ、および抵抗運動である。ロシアでは、ゴムバンドによって日常の活動時でも筋活動に抵抗を受ける衣服(ペンギンスーツ)を用いている。
アメリカが提唱しているような火星へのミッションは、往復で3年程度を要し、これだけの期間となると運動や薬剤だけでは不十分で、人工重力装置の必要性が指摘されている。

〈その他〉
これまでの宇宙環境利用は、主として科学的実験が重視されてきた。しかしながら宇宙ステーションが本格化してきた現在、科学のみならず、応用利用、一般利用、教育のような、さまざまな利用のあり方が検討されている。たとえば、宇宙における人文社会科学、文化、芸術的利用のひとつとして、宇宙での身体的表現・ダンスなどが提案され、研究会が開催されている。
さらに重力から解放されることにより、新たな運動・活動形態が創造されることも期待される。

〈おわりに〉
生命が地球に誕生して約40億年の時間が経つが、人類の宇宙進出により、重力から解放された環境を実現することができるようになったのは、たかだか40年程度である。地球環境を離れなければ、地球環境の何が生命活動に必要かは、本当の意味では理解できないと考えられるが、重力環境もそのひとつである。宇宙という新たな環境を多くの人間が体験できるようになった時、われわれ人類は、新たな視点をもつことができるのではないだろうか。
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2013年02月17日

一人称の「からだ」(過去ブログより再録)

村川治彦 2003 一隅を照らす光を集める ―オウム事件以後の一人称の「からだ」の探求に人間性心理学は何ができるか― 人間性心理学研究,21,43−52.


1.オウム事件が投げかけた課題

現代においては、自らの生きる意味を捉えなおそうとする行為が困難になってしまった。そうした行為の際にかつて拠り所となっていた様々な枠組が機能しなくなっている。人間を物質に還元して捉える近代科学は、人間が存在する意味を教えない。一方、そうした近代科学の成功によって、伝統的な宗教の価値体系は、科学的視点の下位に押しやられてしまった。こうした現状に対し、宗教でも客観性に偏重する自然科学でもない、独自の視点と方法で人間を模索してきた人間性心理学が果たせる役割は大きいであろう。


2.人間性心理学と「からだ」

人間性心理学は、行動主義心理学やフロイト派の精神分析が見失った、人間を全体性として探求するという知的関心の中から生まれてきた。人間性心理学が、単に理論的・知的に人間を探求するに留まらず、個々人が実践的・体験的に自らを探求するアプローチにまで拡大したのは、同じ時期により大きな大衆運動として始まったヒューマン・ポテンシャル運動の影響によるものであった。
ヒューマン・ポテンシャル運動では、様々な身体へのアプローチが行なわれていたが、それらは当初ボディワークと総称されていた。それに対しトマス・ハナは、全体としての「からだ」に対する独自のアプローチであることを強調するためにソマティクス(Somatics)という呼称を生み出した。ハナは客体としての身体と主体としての「からだ」の違いを、「人間が外側から、すなわち三人称の観点から観察されたとき、人間の身体(body)という現象が知覚される。しかし、この同じ人間が自らの固有感覚(proprioceptive sense)という一人称の観点から観察されるとき、カテゴリーとして異なる現象、すなわち人間の『からだ』(soma)が知覚される」と表現し、ソマティクスを「一人称の知覚で内側から捉えた身体としての『からだ』を探求する分野である」と定義した。
ソマティクスの代表的なアプローチとしては、センサリー・アウェアネス、アレキサンダー・テクニック、ロルフィング、フェルデンクライス、ライヒアン・セラピー、ロミセラピー、コンティニュアム、ボディマインドセンタリング、オーセンティック・ムーヴメント、フォーカシング、ハコミ・セラピー、ローゼンワーク、プロセス指向心理学などがある。
ソマティクスの特徴は、治療の対象としての他者の身体に向かう前に、自らの「からだ」を手がかりにした探求を大前提としている点にある。ソマティクスと同じ「からだ」の探求として生まれたアプローチでも、カイロプラクティクやオステオパシーなどでは、西洋医学と同様に身体は客体として対象化されており、治療者自身の「からだ」は問題とならない。これらのアプローチは、西洋医学と同居するために本来のスピリチュアルな出自を捨て、西洋医学的身体観(すなわち解剖学に基づく機械的身体)を採用し、医学と同じ客体化された身体(body)を扱う療法として社会的地位を確立したのである。
これに対してソマティクスのアプローチは、まず自らの「からだ」を通して人間性や身体と心の関係を探っていくことを大前提とする。一見多様なソマティクスの実践家たちは、「からだ」の経験こそが人間のアイデアや価値、感情、スピリチュアルな関わりの母胎となるという共通の認識を持ち、自然科学モデルに基づく心理学や宗教とは異なるところで人間性を探求する実践を重ねてきた。それは言い換えるなら、「一人称の科学」の具体的方法を提供するものであり、ソマティクスのアプローチは、西洋近代医学的な意味での治療を目的とするのでもなく、また伝統的宗教の修行法でもない、新しい一人称の「からだ」の探索であり、ポストオウム時代の私たちが生きる意味、人間性を探求していく一つのモデルを提供してくれる。
人間性心理学は、身体性を重視する要素をソマティクスから取り入れ、「身体と心の統合」を実践する様々な方法を開発してきたのである。


3.主体性を守る三つの視点

近代自我の確立を目指す西洋で独自の道を歩んできたソマティクスは、一人称の「からだ」の探求において、主体性を失わず自由な探求を進めていく方法に関して東洋にはない重要な知恵を育んできた。村川氏は、一人称の「からだ」の体験を追及する際にいかにすれば主体性を失わないかについて、ソマティクス研究家であるドン・ハンロン・ジョンソンが提示する三つの視点を紹介している。ジョンソンは、この分野のパイオニアの声を集め、他の分野の研究者たちとの協同研究の基礎を築いてきた。
ジョンソンが提示する一つ目の視点は、身体に働きかけることで自らが「からだ」の主体であるという感覚を育てる「正当性の技術(Technology of Authenticity)」と、反対にそうした主体としての感覚を失ってしまう方向へと導く「疎外の技術(Technology of Alienation)」との区別である。
身体技法を学ぶ場合、それを実践する人が、自らの感受性を高めより豊かな知識と自らへの肯定感を深める技法のあり方と、実践する人が、外的に与えられた目的を達成することに必死になるあまり、自らの体験自体にほとんど価値を置かなくなってしまう技法のあり方(そこには罪悪感、自己否定感が忍び込む)とを区別することが重要である。
二つ目は、一人称の「からだ」を探る多様なアプローチを考える上で、それぞれのアプローチが持つ原理と技法とを区別する視点である。ここで言う原理とは「ある発見へと導く源」であり、技法はそうした原理を体験するための方法である。
原理を体得するために、それぞれのアプローチは様々な具体的技法を開発してきた。しかし、そうした技法上の違いが強調されすぎると、それぞれのアプローチの独自性だけが強調されてしまう。それに対して、技法が生まれてきた原理のレベルに注目すれば、異なるアプローチでも共通の基盤があることが認識でき、対話が可能になる。
ソマティクスにおいては、すべての技法の上位に西洋が発達させてきた「自由な探求」の原理があり、そのことが技法を学ぶ上で権威に盲従する危険性を防いでいる。特定個人の権威を否定し、「自由な探求」を原理とする姿勢は、アメリカにいるソマティクスの創設者たちの共通認識でもある。
一人称の「からだ」の探求において主体性を失わないための三つめの視点は、地図と領域とを混同しないことである。「からだ」での体験は、意識や言葉以前の全体的なものであるが、私たちはそうした体験から我に返ったとき、その体験の意味づけを求める。他者に対して、あるいは何よりも自分自身に対して言葉で説明しようとする。そうした意味づけによって、体験を理解し安心できるからである。
「からだ」の探求において未知の体験に出会ったとき、私たちはその体験の意味を即座に求めすぎるあまり、外の権威に頼ってしまう。しかし、そうした外的な意味づけは、体験という領域をあらかじめ与えられた地図と混同することにつながり、その混同は必然的に体験者の主体性を奪ってしまう。
一人称の「からだ」の体験を探る際には、他の地図を参考にしながらも、最終的には一人一人が自分の地図を作ることが大切である。それを可能にするには、まず様々なアプローチのパイオニアや熟練者たちが、原理と技法を区別した上で、それぞれの地図をどのようにして作ったかという基本的な情報を公開し、共通の場で照合検討していくことが必要になる。現在、一人称の「からだ」の探求においてそれぞれ独自の地図を作ってきたソマティクスの実践家たちは、互いにそれぞれの地図を比較、照合する基礎作業を積極的に進めている。


4.「からだ」の探求をどう共有するか

人間性心理学者たちは、物理学に範を置く実証主義科学の方法論の限界を乗り越えようと、1970年代から人間科学としての独自の方法論を模索してきた。現象学、解釈学などの伝統を基盤にした近年の人間科学の発達は、研究対象の定義、研究方法の提示、現象の観察といった手続きを経て、人間科学独自の基本データの蓄積を行なう方法を編み出してきた。こうした人間科学の方法論に基づく研究は、瞑想体験や痛みの体験を始め「からだ」を探求する様々な領域で成果をあげているが、それでもまだ十分に解決されていない二つの点がある。一つは体験を言葉にする際の問題、もう一つは研究成果の検証の問題である。
前者に対しては、新たな手がかりを与えてくれるものとして、ユージン・ジェンドリンの哲学がある。「からだ」の探求者の体験を言葉にする際に、言葉が体験過程を進めるように、インタビュアーと体験者が言葉をフェルトセンス(特定の問題や状況についての「からだ」の感覚)に戻して確かめながら対話を進めていくことが重要である。
後者の問題を考えるにあたっては、科学の営為を客観性の追求ではなく「自ら知っているものを他人にいかにして発見させるか」という知的探求の出発点に戻すことが大切である。そうすれば、研究成果の判断基準を、抽象的な客観的真理とそれに基づく有効性から、同じ「からだ」の探求を行なう協同研究者にどれほど意味のある形で正確に提示されているかという共有可能性に置き換えることができる。


5.最後に

伝統的宗教がその力を失い、一方で西洋近代の諸価値の行き詰まりが顕著になっている現代社会において、人間とは何か、生きている意味とは何かというスピリチュアルな問いを真剣に探求しようとする人々が増えている。そうした人々がオウムのような道に迷い込むことなく、より開かれた「正しい」方向に進んでいくためには、互いの体験を検証し合える協同作業のための開かれた場が必要である。この30年間、ソマティクスや人間性心理学は、狭く閉じ込められ体系としての宗教でもなく、人間を物質に還元してしまう自然科学でもない第三の道として、そうした場を提供することを模索してきた。
日本には「一隅を照らす」という素晴らしい言葉がある。一人称の「からだ」の探求を行ない、それぞれの地図を頼りに一隅を照らす努力を続けてきた大勢の人々がいる。一つの大きな光で部屋全体を照らし出す時代が去った今、日本で一隅を照らし続けている人々に呼びかけ、地球というさらに大きな部屋を明るく照らしていくために、それぞれの掲げている光を皆で分かち合うことかが求められている。「からだ」とスピリチュアリティの探求に人間性心理学が果たせる役割があるとすれば、そうした呼びかけにこそあるのではないであろうか。
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2013年02月14日

ホワイトヘッド著/藤川吉美訳『自然という概念』より

自然は思考と無関係に存在している。わたくしはたとえこう言明したにせよ、いかなる形而上学的宣言をも意図しているのではない。ただ、思考について語らずして、自然について考察しうるということを意味しているにすぎないのである。


思考にとって「赤」は、たんに、一定の実質にほかならないのであるが、他方、意識にとっては「赤」は、その赤の個体性の内容を含んでいるのである。意識の「赤」から、思考の「赤」への推移には、はっきりとした内容の喪失を伴うのである。すなわち、要因としての「赤」から、実質としての「赤」への推移によって、内容は失われるのである。意識から思考への推移に際して、このような内容の喪失が伴うことは、思考されたものは他人に伝達されうるが、感覚意識は他人に伝達不能であるという事実からもうなずけるであろう。


もし、感覚知覚が事実の要因としての実質の現実的位置から捨象された個体性に関する認知を含んでいるならば、感覚知覚は、疑いもなく、思考を含んでいることになる。しかし、感覚知覚が、情緒とか目的的行動を惹起させるに足るくらいの、事実の要因の感覚意識として考えられているのみで、それ以上のものを認知していないのであるならば、感覚は思考を含んではいない。


意識にとっての直接的事実とは、自然の全体的生起である。それは、感覚意識に呈示される一つの出来事としての自然であり、本質的に推移しつつあるものである。…この全体としての出来事をわれわれは部分的な出来事へと弁別していくのである。われわれは自分たちの身体的活動としての出来事とか、この部屋の内部の自然的変化としての出来事とか、さらに、他の部分的な出来事の集合を漠然とではあるが認知しているのである。これが、まさに、事実をその部分へと弁別していく感覚意識における弁別なのである。


自然的実質とは、それ自体として考えられるなら、たんに事実の要因に他ならないのである。事実の複合体から自然的実質を分離することは、まさしく、たんなる抽象化にすぎないのである。実質は要因の基体ではなく、思考においてむきだしになった、まさに要因そのものなのだ。したがって、感覚意識を弁論的認識へと翻訳するたんなる心的な手続きであるものが、いつの間にか、自然の基本的性格に移しかえられてきたわけである。


ギリシア思想を基礎づけたプラトンとアリストテレスは出来事の過程がそれによって表現される、単純な実体の探求に心を奪われていたのである。われわれは「自然は何から作られているか」という質問のなかで、そのようにたずねる人の心的状態を定式化することができるかもしれない。この問題に対してこれら二人の天才が与えた答え、および、より特殊化していえば彼らの答えを形造っている用語に潜在している概念は、科学を支配してきた時間、空間、および物質に関する問われることのない前提を決定してしまっていた。


アリストテレスの論理学においては、肯定命題の基本形は、述語の主語への帰属である。したがって、彼が分析している「実体」という名辞の、今日のさまざまな意味での使用のうち彼は、実体とは「もはや他の何ものにも述語づけられない究極的基体」としての意味を強調する。…アリストテレスの論理学を無批判に受容したために、感覚意識に開示されたすべてのものにその基体を要請する、という伝統的な根強い傾向、つまり、われわれが意識しているものの底に「具体的事物」という意味での実体を求めるという傾向が現われるにいたったのである。


わたくし個人の考えでは、述語づけ(述語の主語への帰属)なるものは便利で共通の会話形式のもとに、多くの異なった関係を混同している、曖昧模糊とした観念であると思う。…諸特性の述語づけは、もろもろの実質のあいだのそれぞれ異なった関係を徹頭徹尾覆い隠してしまうのである。


科学的な意味においては、物質とは、すでに、時間と空間のなかに存在するものである。したがって、物質とは、時間的、空間的な特性を考えからはずし個体的実質というむきだしの概念へたどりつくことの拒否を表わしている。たんなる思考の手続きを、自然の事実へと移入して混乱におとしいれた原因は、まさに、この拒否にある。時間と空間の特性以外のすべての特性を剥ぎとられた実質が、ついに自然の究極的組織(texture)として物理学的地位を獲得することになった。


空間にあるものは実体ではなく属性である。われわれが空間において見出すところのものは、バラの赤さであり、また、ジャスミンの香りであり、さらには、大砲の騒音である。われわれは歯痛がするとき、誰しも、どの歯が痛むかということを歯科医師に告げるであろう。したがって、空間とはいろいろな実体の間の関係ではなく、いろいろな属性の間の関係なのである。


なにものかが移り行きつつあるところには、いつでも出来事が存在する。さらに、「いつでも、どこにも」という表現は、それ自身、すでに、出来事の存在を前提している。というのは、時間と空間そのものが、いろいろな出来事からの抽象化の所産であるからである。


言語というものは感覚意識に開示されている無限に複雑な事実を誤って抽象化し、それを習慣的に心に配置しがちなものなのである。


われわれが一掃しなければならない誤った考え方は、自然をそれぞれ孤立の状態にある独立した実質の集合体にすぎない、とみなす考え方である。こうした概念にしたがえば、その性質がばらばらに定義されうる実質が一緒になって、それらの偶然的関係によって自然の体系が形成されることになる。この自然の体系なるものは、したがって、まったく偶然的なものである。また、かりにその体系が、機械的運命にしたがっているとしても、それは偶然的にそのようにしたがっているにすぎない。


…わたくしが言いたいことは、物理的な自然(physical nature)を離れてしまうならば、いかなる空間的事実も、またいかなる時間的事実も存在しないということである。つまり、空間や時間は、諸出来事の関係について一定の真理を表現するやり方にすぎないのである。
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2013年02月12日

動きは多くを語る

川村久美子 1992 “概念”を知覚する 現代のエスプリ,298,27−38.

本論文は、様々な実験を紹介しながら、動きと知覚の関連について検討している。

私たちは、対象を静止画像のように見ているのではない。対象の動きに意味を見出し、また自らも動きながら知覚している。静止していると意味を成さない対象が、動き始めるとすぐさま意味をもち始める。実験で、乳児に棒の中央を何かで隠して見せてやると、隠されていない両端がつながっているとは思わない。ところが、少しでもその棒を動かしてやると、それが一本の棒であることを知覚する。

生物と無生物の動きを見分ける実験も面白い。生物と無生物の動きだけを抽出(光点として)して被験者に見せ、それが生物の動き(蟻の動き)であるのか、あるいは無生物(枯葉の落下、ボールの投げ上げなど)なのかを判別させる実験であるが、これが確実に正しく知覚される。ところが、生物の動きのうち、身体自体の空間移動を残しておいて、身体の向きを変えるなどの小刻みな動きを取り去ってしまうと、それができなくなる。実は後者の動きは、生物に特徴的な、知覚と行動の両面における環境との絶えざる相互作用を表しているのである。

知覚に「重力」という環境を関わらせた、興味深い実験も紹介されている。光点を被験者の面前で左から右へと横へ移動させるときと、上から下へと縦(重力の方向)へ移動させるときの認識の違いを調べる実験なのであるが、横に移動させるとき、一定割合で減速させると、「何の力も働いていない、自然な動き」であると知覚し、加速させると、「対象自体の力が働いている」か「“見えない”外部の力が働いている」かのどちらかであると知覚する。それに対し、縦に移動させるときには、加速させるほうが「何の力も働いていない、自然な動き」に見え、一定割合で減速させるほうが、対象自身の力か外部の力が働いていると見える。つまり、被験者は純粋に対象の動きだけでなく、環境情報(この実験の場合には「重力」)を併せて知覚していることになる。

知覚とは、静止画像を網膜に写すようなものではない。私たちは、対象の動きから様々な意味を直接的に知覚しており、そうした知覚活動を通して、豊かな意味をもった世界に密接して生活している。本論文はそうしたことを伝えてくる。
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2013年02月10日

ウィリアム・ジェイムズ著/桝田啓三郎、加藤茂訳『根本的経験論』より

私はただ、この「意識」という語が存在を表わすとする考え方を否定したいだけなのであり、この語は機能を表わすものだということを、私は断固として強調したいだけなのである。


私たちは、経験が表象することを「主観的」と言い、経験が表象されることを「客観的」と言う。表象するものと表象されるものとは、ここでは数の上で一つである。しかし、表象されることと表象することという二元性が、経験それ自体のなかにあるわけではないことを、私たちは銘記しなければならない。


…経験をつくる一般的な素材などというものは存在しない、と言わねばならない。経験される事物のなかにある「もろもろの性質」と同じだけ素材もあるのである。一片の純粋経験のどれもが何からつくられるのかと尋ねられれば、答えはいつも同じである。「それはあれから、ちょうど現われるままのものから、スペース、度の強さ、平たさ、茶色さ、重さ、その他いろんなものから作られている。」


…かつて「精神」spirit の起原であった気息、声門と鼻孔の間から外へ出てくる気息こそ、哲学者たちが彼らに意識として知られる存在物を構成してきたものの本質なのだ、と私は信じている。かの存在物なるものは架空のものであるが、具体的な思想は、充分に現実的なものである。しかし、具体的な思想は、事物と同じ素材からつくられているのである。


概念的知識は、知る経験自身の外部にある諸事物の存在によって―介在する経験によって、そして充足する目的物によって―もっぱらつくられる、と私たちは説明しなかったか。概念的知識は、その存在を構成しているこれら諸要素が生じない前に、存在しうるだろうか。そして、もしこの知識が存在しないとしたら、客観的照合がどうして起こりうるのであろうか。


(イギリス学派の観念論を批判して)私たちの生活は独我論の寄り集まりであって、そういう寄り集まりから、せめて言説の一世界でも厳密な論理に従って、組み立てうるものがあるとしたらひとり神様だけであろう。私の対象とあなたの対象とのあいだには、動的な流れは通じてはいない。私たちの心と心とが同じもののなかで出会うなどということはけっしてありえないのである。


私たちの心が少なくともいくつかの共通の対象のなかで出会う。ということに私が賛成する決定的な理由は、そう仮定しなければ、あなたの心がいやしくも存在していると想定する動機を私はもたなくなってしまう、ということである。なぜ私は、あなたの心を要請するのか。それは、私はあなたの身体が一定の仕方で活動しているのを見るからである。あなたの身振り、顔面の動き、言葉および一般に行動が、「表現的」である、だから、私は、あなたの身体も私自身の身体と同じように私のと同じような内面生活によって、行動させられているのを認めるのである。


もしあなたがあなたの世界のなかのある対象に変更を加えるなら、たとえば、私が現にそこにいるのに蝋燭の火を消すとすれば、事実上、私の蝋燭の火は消えてしまう。あなたが私の対象に変更を加えるからこそ、私はあなたが存在していると推測するのである。もしあなたの対象が私の対象と合一しないとすれば、もしあなたの対象が私の対象の在るその同じ場所に在るのでないとすれば、あなたの対象はどこか他の所に確かに在るということが立証されねばならない。ところが、あなたの対象には他に所在地があるとは認められない。だから、あなたの対象が在る場所は、そこであると思われているところ、つまり私の対象の在るのと同じ場所でなければならないのである。


あなたが内部から動かしたり感じたりするあなたの身体は、私が外部から見たり触れたりするあなたの身体と同じ地点になければならない。「そこ」は、私にとっては、私が私の指を置く場所を意味する。もしあなたが、私が私の指をあなたの身体の一点に置くとき、私の指が触れているのは私の感覚における「そこ」であることを感じないとすれば、それではあなたはいったいどこに私の指を感じるのか。


「意識的」であるということは、単に在ることを意味するのではなく、報告されてあること、知られてあること、そういうあり方に自分の存在が加わっていることに気づくことを意味するのであって、このことこそ、私有的経験が〔純粋経験の〕後につづくときに行なわれることなのである。


分類は、私たちのそのときどきの目的に左右される。ある目的のためには、事物を一方の組の関係のなかに入れるのが便利であり、他の目的のためには、他方の組の関係のなかに入れるのが便利である。


ダイアモンドの貴重さはその宝石の性質なのか、それとも私たちの心のなかの感じなのか。実際には、私たちは、そのときどきの私たちの思想の方向に応じて、それをいずれか一方の意味に採ることもあれば、両方の意味に採ることもある。
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