2013年02月09日

F.M.アレクサンダー著/鍬田かおる訳『自分の使い方』より

私たちが持ち得る最も価値ある知識は、私たちが自分のつかい方を、そして、人間の個人一人ひとりが、自分の健康や健全な心身の在り方の標準を、どうやって底上げすることができるかということです。


私が「ユース」(自分のつかい方)というとき、私はどこか特定のからだの部位、例えば腕や足のつかい方という限られた意味を示唆しているのではないと明言したい。こういった部位別に思われる行為も、包括的な意味で、生き物の機能全体への適用の意味で述べているのである。私が認識しているのは、からだの特定な部位をつかうことは、必ず、生き物のあらゆる「サイコ・フィジカル(心身的)」な仕組みをつかうことになるということで、これらが一緒に働くことによって、特定な部位の働きが起きることである。


人間の特筆すべき性質の一つに、どんな状態にも慣れていく順応性がある。それが良い変化であれ、悪いものであれ、自分の中の変化であれ、環境の変化であれ、そういった状態に一度慣れてしまうと、それが本人には正しく自然に思えてくる。
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2013年02月07日

ウィトゲンシュタイン著/大森荘蔵訳『青色本』より

思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、〔君の言い方で〕心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味でである、ということに注意を向けてもらうだけだ。


意味を持たず、思想を持たないでは、命題は命のないがらくたである。更に、無機物的な記号をいくら加えても、命題を生かすことはできないことも明白に思える。そして人がこのことから引出す結論は、生きた命題にするために死んだ記号に加えねばならぬものは、単なる記号とは別の性質の何か非物質的なものである、ということになる。


我々が「思想が頭に浮かぶ」と言うとすれば、この句を冷静に理解したときの意味は何であろうか。私が思うにそれは、思想に〔頭の中の〕ある生理学的過程が対応しており、この対応の仕方を知っておれば生理学的過程の観察によって思想がわかる、ということであろう。だがどういう意味で、生理学的過程が思想に対応すると言えるのか、また、どういう意味で、脳の観察から思想がわかると言えるのか。


哲学者はしょっ中、言葉の意味を探究したり分析したりすることを云々している。しかし、言葉は何かいわば我々に依存しない力からその意味を附与されていて、言葉が真に意味するものを明らかにするための一種の科学的研究がありうる、というものではない。そのことを忘れないでほしい。一つの語の意味は、誰かが与えたものである。


我々が何かを言いそしてその言うことを意味するとき一体何が本当に起こっているのか、…。―自分自身に尋ねてみよう。誰かに「お目にかかれて嬉しい」と言い、またそのことを意味するとき、言葉の発声に伴って、或る意識過程、それ自身また声言葉に翻訳できる過程が進行しているだろうか、と。まず大抵はそうではあるまい。


或る句が我々に対して持つ意味は、我々がその句を使う用法によって規定される。意味とは表現の心的付随物ではないのである。したがって、哲学的議論の中で或る表現を使うのを正当化しようとして、「それで私は何かを意味していると考える」とか、「それで私が何かを意味していることは確かだ」という句を頻々と聞くが、それは我々にとっては何の正当化でもない。
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2013年02月05日

河本英夫著『臨床するオートポイエーシス』より

脳神経科学の進展によって、意識的・意図的な経験以前に脳神経系はすでに作動してしまっているという実験科学的事実が広汎に解明された。眼前の物体に手を伸ばそうとするとき、そう意識される以前に脳神経系はすでに作動してしまっている。すると意識でそれとして経験される以前に脳神経系は、おのずと必要な活動を行ってしまっていることになる。


…それは認識をつうじて世界を知り、いわゆる客観的世界についての認識の成立をまって、はじめて行為としての世界とのかかわりが誘導される、という認識論にとっての自明の前提である。これはほとんどありえない虚構である。ヨーロッパに発する数々の学問論は、その本性上世界を正しく知ることに力点を置いている。すなわち真偽の判定が可能であることを出発点に置いている。そして正しく知って後に、行為が誘導されるのである。こうした事態はかりにあるとしても、ごく稀なことであり、例外的な局面が一種の倒錯である。


システムの本性は、部分‐全体関係でもなく、階層的な統合でもなく、むしろそれとして作動することである。みずから作動することはたんなる運動ではない。作動はつねにプロセスのさなかにあるが、たんなるプロセスではない。作動には、同時に認知がともなっているが、認知から制御されているのではなく、また認知に誘導されるのでもない。つまりどのような意識的な意図や目標設定であっても、行為を決定するものではない。


創発的な経験は、一般規則を適用するように応用できはしない。創発の経験を習得することは、その経験のプロセスに寄り添うような自分自身の経験の形成を必要とする。


「感覚」の特性は、感覚するものと感覚されたものが分離しないことであり、音とはすでに聞かれた音であり、色とはすでに見られた色である。感覚するものと感覚されるものの分離がない。それに比べて、知覚は何かをそれとして捉えることであり、それとしてという可変項にさまざまなものが入る。それが一般に意味と呼ばれるものである。


…知ることによって行為がはじめて可能になるのではない。知ることによって動作が誘導されるのは、ロボットだけである。むしろ認知と行為は同じ一つのことのように連動している。脳神経系システムで言えば、主として前頭連合野や頭頂連合野の働きであり、脳の八割は連合野である。できるという働きは、知覚的認知の基礎にあったり、知覚から導かれたりはしない。むしろ知覚と同時に進行している。連合野の働きは、「つねに同時に」というモードで作動する。


まなざしは、ノエシス、ノエマ(意識極‐対象極)を基本としており、メルロ=ポンティはこの仕組みを限界と極の反転にまで追い込んでいる。だが触覚性の知覚は、そもそもノエシス、ノエマ型ではない。それはこの型のもとで受動性を極限的に強調したり(たとえばレヴィナス)、受動性に運動を継ぎ足すようなこと(たとえばギブソン)では、解消されない事態である。


…経験の大半は志向的意識が関与する以前に作動し、志向的意識からは何であるか判明しない状態で作動している。


方法とは、現に実行される経験の作動のごく一部を抽出したものである。そのため現実をきわめて単純化したものである。方法にしたがって経験が作動するのではなく、方法は現実の行為を方向づける統制原理でさえない。方法は現実のプロセスと同時並行する経験の手掛かりでしかなく、場合によっては経験を動かすための予期である。


…言語に写し取られた事態は、言語に内在する論理、すなわち前提‐帰結、方法‐応用展開、本体‐属性、意味するもの‐意味されるもの、意味‐理解、原理‐派生のようなカテゴリー的論理に翻訳されてしまう。この翻訳可能性が、通常理解可能性に置き換えられる。理解可能性のもっとも広い経験を哲学が提供する。だが哲学は、残念ながらこの翻訳可能性のなかにどっぷりと留まっている。そのため哲学書を理解可能性にしたがって読むのなら、いくら読んでも何もわからないという事態が起こる。


理解は、ほとんど神経症的基準のもとにある。理解すれば、経験を動かす必要はなくなる。経験の動きの外に枠を張り出す仕方がそもそも経験そのものの作動とすれ違っており、それじたい経験の傍らを通り過ぎていく。狂気とはみずからとみずから自身の経験との間に隙間がない状態のことである。本気の一歩先で本気になっていることである。これはみずから自身にとってみずからが収拾のつかない病とは異なる。狂気の状態の近くまで行ったことのない人間が、狂気について理解だけして、いったい何が行われたことになるのか。狂気の経験と狂気の理解との際限のない隔たりを埋める努力がないわけではない。それが方法である。そのため方法とはある種の必要悪であり、なくて済ますことができれば、その方がよいもののことである。


意識とは経験のプロセスのなかで出現する一つの躊躇にすぎない。意識とは躊躇の別名である。


言語は基本的には身体にとって疎遠なはずだが、言語の語られる環境内で身体行為が形成される以上、何らかの密接な関係があるはずである。
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2013年02月03日

アンリ・ベルクソン著/中村文郎訳『時間と自由』より

あなたたちは、強度の起源を、意識の事象である純粋な質と、空間であるほかない純粋な量との間の折衷に見出すだろう。ところで、このような折衷こそ、あなたたちが外的な事物を研究するときには、何のためらいもなく破棄している当のものではないか。なぜなら、そこでは、あなたたちは力それ自体を、その存在は想定しながらも、測定可能で拡がりのあるもろもろの結果としてのみ考え、わきへ押しやってしまうからだ。


意識は、区分への止みがたい欲望に突き動かされて、実在を記号に取って代えるか、記号を通してだけ実在を見てしまう。このように屈折し、このことによって細分化した自我は、社会生活一般の要求、とりわけ言語の要求に限りなく巧みに応じるものとなっているから、意識はこの種の自我の方を好み、少しずつ根底的な自我を見失っていくのである。


或る被験者が催眠状態で受けた暗示を指定された時刻に実行するとき、彼がおこなう行為は、彼によれば、彼の意識の諸状態の先行系列によって誘導されたものだということである。しかし、これらの意識状態は本当は結果であって、原因ではない。


私たちは自分自身を直接に観察する習慣がなく、外的世界から借りてきた諸形式を通して自分を捉えるものだから、現実的持続、意識によって生きられた持続が、惰性的な諸原子の上を、それに何の変化も与えないで滑り過ぎてしまう持続と同じものだと思い込むようになる。


輪郭のはっきり決まっている言葉、人間の諸印象のうちの安定したもの、共通なもの、したがって非人格的なものを記憶に蓄えている剥き出しの言葉は、私たちの個人的な意識の微妙で捉えがたい印象を押し潰すか、あるいは少なくとも覆い隠してしまう。


感覚に対する言語の影響は一般に思われているよりも根深いものである。言語はただ単に私たちに感覚の不変性を信じ込ませるだけではなく、体験された感覚の性格についてときには欺くこともある。


私たちは本能的に自分の印象を凝固させて、それを言語で表現しようとする傾向がある。そのことから、私たちは恒常的な生成のうちにある感情そのものを、その永続的な外的対象と、特にその対象を表現する言葉と混同することになる。
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ワロンの発達心理学(過去ブログより再録)

Wallon,H./浜田寿美男 訳編 1983 ワロン/身体・自我・社会 子どものうけとる世界と子どもの働きかける世界 ミネルヴァ書房

本書は、1938年から1956年の間に発表された、ワロンの論文を集めたものである。
現代心理学におけるワロンの仕事は、ピアジェのそれと比較することでよく見えてくる。本書では、最終章にピアジェの論文を付すことによって、両者の対比ができ、結果としてワロンの仕事が浮かび上がってくる。

ピアジェは、知能を他の諸領域とは切り離された特権的な領域として捉え、その発達を構造的に整理することによって、人間の全体性を見ていこうとする。ピアジェの描く筋書きはある意味単純で分かりやすいが、その単純化によって人間の全体性を捉え得たかというと、非常に疑わしい。
それに対してワロンは、パーソナリティという、生理・心理・社会的な意味での人間の全体性をそのまま視野に入れて、その発達過程を見ていこうとする。したがって、ワロンの理論が難解に見えるのは、人間を常に全体として捉えようとするその方法のためであり、人間自体の難解さから来ていると言えよう。
ワロンはこの難解さのために(というか、現代心理学における、全体性の放棄、部分の「切り取り作業」という傾向のために)十分に受け入れられないまま、歴史の中に埋もれようとしている。

以下は、ワロンの論文からの引用である。
「子どもがこの時期(およそ生後3ヶ月間)にやれる有効な行動は、ただ泣き声や姿勢や身動きで母親に助けを求めることでしかありません。ですから、子どもが自分に役立てることのできる最初の行動は、外界の対象を手に入れたり、それをよけたりする行動ではなく、人に向けた身振りであり、表現的な身振りなのです(子どもの生活は最初、社会性の関係によって開かれるわけです)。これは非常に重要な点です。人間とはまさに集団からなるもので、人びとはそのなかで儀式や伝統や言語を共有し、それを媒介にして互いに協同し外界を支配するのです。しかし、人びとは互いに助けあって生きていくために、最初はまずそういう媒介なしに支えあっていかなければならなかったのです」
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2013年01月31日

身体感覚留意の心理的効果(過去ブログより再録)

生月誠 前田基成 東條光彦 2003 腕感覚への留意反復の心理的効果に関する研究 カウンセリング研究,36,115−120.

自律訓練法に含まれる手続きとして、「身体部位への受動的注意集中」というのがある。要するに、身体の特定部位(本研究では、腕である)に注意を向け、その部位の感じをそのままに「味わう(感覚する)」というものである。
本来の自律訓練法では、その後に「暗示公式の繰り返し」という手続きがあって、つまり、心の中で「腕がおも〜い」「お腹があたたか〜い」などを繰り返すのであるが、それによって安静感を得ようとする。
本研究では、その「暗示公式の繰り返し」を省き、「身体への受動的注意集中」を行なうだけで、何らかの心理的な効果が得られるかどうかを実験(リラクセーション講座の受講生42名を対象)を行なって検討している。
結果は、「身体への受動的注意集中」だけでも、「暗示公式の繰り返し」を行なうのと同様に「安静感」「受容感」があり、腕感覚の表現内容(「腕にこんな感じがある・・・あんな感じがある」)が豊かになったという。
ボディワークに当てはめて考えると、クライアントに対して、触れられた感じに受動的に(そのままに)注意を向けるように促せば、それだけでクライアントの安静感が増すことになる。また、どんな身体感覚があるのか質問する(受容的な態度で聴くのがよいであろう)のも効果的かもしれない。
身体感覚に受動的な注意を向ければ安静感を味わえることを、セッションのときだけでなく、日常でも知ることができれば、私たちの、身体との付き合い方も変わるであろう。
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2013年01月24日

ル・クレジオ著/豊崎光一訳『物質的恍惚』より

ぼくは死んではいなかった。ぼくは生きてはいなかった。ぼくは他者たちの躰の中にしか存在していず、他者たちの力によってしか力をふるえなかった。運命はぼくの運命ではなかった。極微な動揺が時の流れを走って、実質であるものは種々さまざまな道を辿って揺れていた。どの瞬間に、ドラマはぼくにとって切って落とされていたのか? どの男ないし女の躰の中、どの植物の中、どの岩の塊の中で、ぼくはぼくの顔に向かう旅を始めていたのか?


ぼくは隠されていた。他の形、他の生命の数々が余すところなくぼくを蔽いつくしており、ぼくは存在する必要がなかった。かくも充実し、かくも張りつめたこの空間の中には、ぼくのための場所はなかった。すべてが充満していた。何ものもつけ加えることなどできなかったろう。


創造の深淵から出てきた結果がいかなるものであれ、それらには原因がなかった。原因がありえなかった。偶然というものの無限に微小な運動によって出現していたものは、一つの道を辿ってはいなかった。運命とは遅延して作用する幻影だった。突発するところのものは一つの現前の認知であり、それに一つの起源を与えることも一つの目的を与えることもできなかった。これがある、ただもうそれだけのことだった。


つねにこの光がすでにあったのだ。つねにこのエネルギーがすでにあったのだ。いつも変わらず、つねにこの運動ないしこの不動さが、この懐胎が、すでにあった。常に無限の猛烈さが顕示されており、全的な現前があった。なぜ起源などが? なぜ終末などが? 存在の場所は境界がなく、裂け目がなく、そしてもろもろの行為の流れは、さながら円環のように、かつて始まるのをやめたことがなく、終わるのを始めたことがなかった。


ぼくぬきで出現したものは、出現していた。ぼくぬきで石だったもの、ぼくぬきで空気、ぼくぬきで稲妻、ぼくぬきで両棲類だったものは。太陽ぬき、大地ぬきで在ったもの、光ぬきで在ったもの、そうしたもの全ては非物質的な拡がりの中にはなかった。そうしたものは現前していた、言い表しがたく現前していた。それぞれの物がみずからのうちにそれなりの無限を蔵している。


かつてぼくは沈黙に属していた。ぼくは表現されえないすべてのものと混じり合い、他者たちの名と躰によって隠されていた。ぼくは不可能さのふところに抱かれていた、あんなにもたくさんの事物が可能であるというのに。ぼくの言葉、ぼくの言語には価値がなかった。ぼくの思考、ぼくの意識には通用性がなかった。ぼくはぼくの父とぼくの母の言葉で、ぼくを孕みぼくを創った者たちの単語で話した。ぼくはあちこちにいた、あんなにもたくさんの男、たくさんの女の躰の中に。


だが、この世界は過去のものではない。この現実は、ぼくが生まれていなかったとき通用していた現実なのだ。この沈黙は遠いものではない。この空虚は無縁のものではない。ぼくがそこでは不可能だった大地は、なおも続いている。それこそは、ぼくが手で触れているものであり、そして突如としてゼロから現出したこの物質はぼくの躰とぼくの精神とを形作っている材料なのだ。


ぼくのまわり、いたるところに、光の脆い眺めの中に、ぼくという人間の世界の微小な眺めの中に、この巨人=世界の怖るべき重たさが見てとれ、この世界はぼくぬきで存在していた。


数々のガラスの器の中、鏡の中、不透明な鋳物の中、コンクリートと大理石との塊の中心に、それはいて、いるのをやめたことはただの一度もなかったのだ。それはぼくたちの定かでない生まれにまつわるもの、空虚と夜との僭主で、生命の浮ついた煌めきの中にうずくまり、その影を見せている…これほどまでの不感無覚、これほどまでの常軌を逸した平静さはかき消されない。


開花を行わせる運動はかつて終わったことがなく、完了されたことがない。そこに在るものがそこに在るのは、その中心に、その行為の中心に、創生させる眠りというあの魔術的な効能があるからなのだ。存在するものすべては、それを夢みる空虚にとらわれていまだに眠っている―狭小な、広大な空虚、いまだ何びとも完全には住まっていない異様な住居だ。


何ものも、ぼくにとっては言語以外の何ものもない。それが唯一の問題であり、あるいはむしろ、唯一の現実である。すべてがその中では協和している。ぼくはぼくの国語の中に生き、その国語こそぼくを構築するものである。


そう、自分自身に向かって身をかがめねばならぬ、讃嘆と、敬意と、苦悩をこめて。われわれが宿している大いなるもの、美しいもののすべては、われわれの皮膚の中、われわれの靭帯の中、われわれの神経繊維の中にある。どこから来るのか、生きている世界にわれわれをつなぎとめているこの大いなる流入は? われわれを保護し、われわれを守ってくれるこの城壁の起源は何であり、その唯一無二の本性は何なのか? われわれが諸器官の中に宿しているこれらの諸特性の特性、これら諸効能の効能、これら諸生命の生命は、いったい何なのか?


人生の十分の九、それをわれわれは無意識のうちに生きている。われわれが意識しているものは、乱されてよくわかれぬものになって届いてくる束の間の反映のような物、こだまのようなものだけだ。そしてこのこだまにもとづいて、われわれは数々のイデオロギーや、概念や、体系を組み立てているのだ! われわれから遠いところで、われわれの躰は生き、その秘かな闘いを遂行し、死に抗してもがいていて、しかもわれわれはそれについて何も知らないでいるのである。


ぼくにはますます、分析というものが取るに足らぬように思えてくる。分析は接近する役に立たない。知る役に立たない。それは一つの体系にすぎず、人間が垣間見た真理の一小面にすぎない。知るためには、それなしですますことはできまいけれど、それでも、知るためには、それを乗り越えねばならぬ。


ぼくの躰を通じて世界への道をふたたび見出す方法が、あるにちがいないのだ。ぼくが意識していないような、ぼくの躰の一部は、死んでいるのだろうか? そんなことはない。その部分はその外的生命をもって生きているのだ。それは生きている。いったいどうすればいいというのか、その部分にまで達するため、そしてそれを通じて世界に達するためには、しかもその際、何がなんでもぼくをぼくにしたがる、ぼくの思考という番犬の目を覚まさないようにするには?


すべてが場所を移し、すべてが動き、相互浸透し、変えられてゆく、だがすべてが存在し、すべてが明白だ。死が、人間であるのをやめることならば、世界のこの眺めすべては死の眺めだ。現実の、現前する、有効な死の、言葉につくせぬ、猛烈な、精確な死の、非のうちどころがなく、還元できず、分離できない死の眺め。何百万の、何百万の無限倍の、見つめている眼のヴィジョンに、それらの眼が写らないわれわれの眼差を加えたものである死の眺めだ。


言語、感情、考えなど、ぼくが他人たちから受けとりはしたが自分のものとして受けいれていたもの、ぼくが生きる手助けになってきたもの、そうしたものすべては、それでは幻影にすぎなかったのか? そうしたものすべては幻影にすぎなかったのか? それらは世界におけるぼくという人間の生命の閃光の数々であり、そうしたものすべては面倒なんか起こさずに消え失せてかまわぬものだ。


ぼくが死んでしまうとき、ぼくの知り合いだったあれら物体はぼくを憎むのをやめるだろう。ぼくの生命の火がぼくのうちで消えてしまうとき、ぼくに与えられていたあの統一をぼくがついに四散させてしまうとき、渦動の中心はぼくとはべつのものとなり、世界はみずからの存在に還るだろう。諾と否との対立、騒擾、迅速な運動、抑圧などの数々はもはや通用をやめるだろう。


自己であることのあまり、狭いドラマの中に自己であることのあまり、この男が突然、自分の牢獄の閾を越えて、世界全体の中に生きることはありうる。自分の眼でものを見てきた彼は、他人たちの眼で、そして物体の眼でものを見ることになろう。自分の住処を隅々にいたるまで知ってきた彼は、もっとずっと広大な住処を認め、幾百万もの生命とともに生きることになろう。個別なものを通して、彼はたぶん普遍的なものに触れることになろう。しかも、実際に、この世界の、その形の、この時の顕現においてそれに触れることになろう。かくして、それに至るまでは最小の細片の中にいたと思われる者、それを完全に愛したと思われる者は、それをふたたび見出し、それを全体として、そして永久に、認めることになろう。


…それがやって来るのは、いずれにせよ、生命がその作業を終えたときのことである。生命が、世界に対して闘争することを、折ふし、それとも永久に、それとも意識の絶えざる熱烈さのうちにやめて、世界の上に横たわるときのことである、生命が熟したものとなり、首尾一貫した長いものとなったときのことである、それは深い歌で、人はそれを耳にしたり自分の咽喉を使って歌うことをやめ、自分で身をもって奏でるのだ、自分の肉体で、精神で、そして手近にある物質の肉体と精神で。


ヒューマニズム的参与の大部分はおとりである―それに身を委ねる人はほんとうに他人のためにそうしているのではない、もはや自己であることやめるために、個人というものの眩暈を断ち切るためにそうしているのだ。彼にはもはや、一人ぼっちで戦いを行う力がない―自己のうちに発見した敵を前にして挫けた彼は、自己を全面的に否認し、そして集団的諸信仰の無名性に帰依するのだ。たぶん彼はこの参与のうちに、死に対する、虚無に対する即効薬を求めているのだ、けれどもそれは虚偽の薬、いかさまと幻想の薬である。


彼岸というものは、それが形而上的なものであろうと社会的なものであろうと、人間をあの連帯という状況に引き戻し、この状況は一つの安寧なのである。一人ぼっちでいて、何も知らない、そんなことが幸福ではありえなかった。そんなことは、あらゆる不幸のうちでもいちばん密接な、いちばん絶え間ない不幸であるほかなかった。イデオロギーへの隷属の大きな理由がそこにある―そうした隷属は到達ではなくて、一つの後退、人間の集塊への自己放棄なのである。参与の底にある、感情の寛さというものは、しばしば二重の顔を持っている―理念において寛度、そして自己自身に対してはみみっちいのだ。


何一つ、何一つとして解決されるためしはない。思考のめくるめく運動において、終わりはなく、始まりはない。解答はない、なぜなら問題などありはしないのは明らかだからだ。何一つとして提示されていない。宇宙には鍵はない、理由はない。認識に提供されている可能性といっては、連鎖の可能性だけである。そうした可能性は宇宙を目にとめる力を人間に与えるのであり、宇宙を理解する力は与えない。
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2013年01月23日

河村次郎の著書より

『脳と精神の哲学』

…脳還元主義の根底に潜んでいるのが、数百年来西洋の科学を支配してきたデカルト的心身二元論の「哲学」なのである。つまり、神経科学の研究方法と実証データが、いくら精緻さを極めていっても、その根底に存する「哲学」が変化しない限り、本当の意味での根源的真理には到達できないのである。


『心の哲学への誘い』

多くの人は「心」という言葉を聞くと、すぐに主観的で内面的な現象を思い浮かべるが、「心」は実は行動を介して生活世界という外部に延び広がったものなのである。

「私である」という感覚は、他者が覗き込みえない私秘的な内面性の奥底から発生するものではなく、身体的触れ合いや言語的コミュニケーションを通した外面的な社会的行動からの「折り返し」として、各人の心の内部に生じるのである。

意識は、よく不可逆の流れに喩えられる。つまり、それは時間的現象である。しかし意識には広がりもあり、それは対象が現れるフィールドを形成する。すなわち、意識は空間的性質ももっている。すると、意識は時間と空間によって構成された「対象現出のための場」だということになる。

「私」という観念は、「身体を生きる」という感覚と深く結びついている。そしてそれは、他者の行為を模倣し、そこから自己の社会的役割を自覚する、という社会的自己観念の形成とも深く関係している。要するに、自己意識の芽生えは他者との交流における身体図式の整備と諸感覚の統一に基づいているのである。

「私であるとはどのようなことか」という問いは、「私は身体である」という視点を十分取り入れることなしに答えることはできない。そしてその視点は、幼児期の自他未分の癒合的身体経験に淵源し、感覚の原初的層を通して自然の根源的働きと生命的接点をもっている。その意味で、「私が自分の生を生きている」という実感は、他者と自然的生命を共有しているという脱自的感触から反照的に生じたものだ、と言えるのである。

我々は、対象を知覚する際、注意と志向性の働きを介して身体の姿勢や位置を自由に変えるが、これによって身体的パースペクティヴが形成される。そして、この身体的動きが視覚の能動的側面を形成するのである。それゆえ、我々は目のみによってではなく、目を含んだ「身体全体」で対象を見ていることになる。

「我思う、ゆえに我あり」などという認識は、存在論的に極めてレベルの低いものであり、生ける自己組織的自然からの逸脱である。思考作用は、我々の内なる自然的生命から生まれてくるものであり、自然から切り離された精神的実体の能作などではない。
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2013年01月22日

ジョージ・ハーバート・ミードの著書より

『社会的自我』(船津衛、徳川直人 編訳)

すべての自己意識的行為を伴う観察するもの(observer)は、…それ自体の特性(propria persona)において、自己意識的行為を生み出すような実際上の「主我」ではない。むしろ、それは自分自身の行為に対してなされる反応なのである。われわれが他者に対して与える社会的刺激にもとづいて起こるこの反応と、行為の主体と考えられるものとを混同してしまうことが、自我は、働きかけ、働きかけられるものとして、それ自体を直接的に意識できるものだとする考え方の心理学的根拠となっている。

他者に意識的に対峙する自我は、…自分が話すことを自分で聞き、自分がそれに対して答えるという事実、まさにこの事実によって、自分自身にとってひとつの対象、ひとりの他者となる。それ故、内省のメカニズムは、人が自分に対して必然的にとる社会的態度のうちに存することになる。そして、思考のメカニズムは、思考が社会的相互作用において用いられるシンボルを用いるかぎり、内的会話にほかならないものとなる。

自我は、行為において、個体が経験における自分自身の社会的対象となったときに、現われてくるようになる。このことは、個体が他の個体の用いる態度を取得するか、またはそのジェスチュアを用いるかして、それに対して自分自身反応するか、あるいは反応しようとするときに生じてくることである。


『意味のあるシンボルについての行動主義的説明』(船津衛、徳川直人 編訳)

物理的究極粒子からなる機械論的世界がどのようなものであれ、経験において何が対象であるのかを決める境界線は、個々の生物個体の態度と行動によって引かれるものである。生物個体と環境との両方を含むような経験がなければ、そのような対象は存在しないことになる。

対象が主観的とされるのは、それが他者のかかわるような経験からはずされてしまうからではない。それは、行為の発達において自我が生じたときに、人間がそれを自我と結びつけることによって、主観的となるのである。

マインドは、…個人に限定された領域でもなく、ましてや脳のなかに位置づけられたものでもない。有意味性というものは、個人との関係における事物に属している。それは個人の内部に閉じ込められた心的な過程のなかには位置づけられないのである。


『自我の発生と社会的コントロール』(船津衛、徳川直人 編訳)

…自我の発達は社会集団のなかにおいてのみ生じるということである。なぜなら、自我は、物的対象としての有機体が他の物的対象との関係においてのみ存在するように、他者との関係においてのみ存在するからである。

いわゆる「見かけ上の現在」(specious present)においてさえ、継起(succession)があり、過去と未来があるような時間的推移(passage)というものが存在している。したがって、見かけ上の現在は、行為の観点からすれば、過去と未来の両方が含まれているセクションにほかならないものとなる。この自然的時間推移を重要視するならば、知覚の対象は行為の現存する未来(existent future of act)と考えられる。

もし自分が自分自身であろうとするならば、他者にならなければならない。
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2013年01月20日

行くものは行かず(過去ブログより再録)

定方晟 著 『空と無我 仏教の言語観』(講談社現代新書)を読了した。

「行くものは行かず」
これは、仏教哲学者ナーガールジュナの言葉である。
彼はこの言葉で、「行く」という日常の経験を否定したのではない。彼が否定したのは、言葉(概念)を実体視することである。
ナーガールジュナの言葉は、彼以前の仏教が、ものに実体性がないことをひとに理解させるのに用いてきた様々の言葉―空、縁起、中、無自性―のどれにもまして、そのことに成功したようにみえる。
また、彼の言語批判は、無我を悟るには「心」よりも「言葉」を探求するほうが効果的であることを教えてくれる。彼は、言葉を一種の虚無とみたが、そのことを説明するために彼が頼るのは、あくまでも言葉である。彼は、言葉で導けるところまで人を導く。そして、どの方角に真理があるかを指し示すのである。

本書の後半、唯識思想の誤謬や、空思想≠神秘思想について書かれた章が、なかなか刺激的であった。
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