2013年01月18日

長谷川三千子著『日本語の哲学へ』より

日本語には「もの」という言葉がある。それは一方では「存在者」という哲学用語の代役をなしうる言葉でもあると同時に、他方では、「おのれをまさしく示さないところのもの」を示す言葉でもある。


「こと」が時の到来し出現する、その「つぎつぎになりゆく」側面に目を向けているのに対して、「もの」は、出で来ったものが過ぎ去ってゆく、その後姿を眺めやっている。さらには、それが「いづくにか」去りゆく、その「いづくにか」のかなたを見やっている。


人間の言葉―母語としての言葉―は驚くほど透明な、気付かれにくいものである。たとえば、「おーい、そこのカゴを取ってくれ」と言っている人は、自分が言葉を使っているのだなどとは思いもしない。


「もの」という言葉には、本来〈無のかげ〉がつきまとっており、その根源には、物を物としてとらえること―存在する事物の具体相を消し去って、それをただ「物」ととらえること―がある。こんな結論に達してみると、あらためて心に浮かんでくるのが「もののあはれ」という言葉である。


日本語の「もの」は、決して単なる「存在者」などではない。もしこれをハイデッガーの用語と対比して言うならば、「もの」は「存在者」と「存在」とを一つにつなぎ合わせることのできる言葉であり、「もののあはれ」とは、まさに「存在者をその存在においてとらえる」ことに相当する…


日本語では、…「あるということ」と「あるもの」とは、どちらもごくふつうの日本語でありながら、「こと」と「もの」という二つの言葉によって、ハイデッガーが苦労して強調した「存在」と「存在者」の区別が、なんの苦もなく表わされている。…言うならば、日本語のうちには、〈存在への問い〉が存在者についての問いへと横すべりしてしまうのを防ぐ装置がそなわっているのだということになる。


「オン」というギリシャ語は「存在」をあらわすと同時に、「存在者」をあらわす言葉でもあった。…そのときどきの文脈次第で「あるということ」をあらわしたり「あるもの」をあらわしたりする。つまり、西洋の形而上学の歴史においては、その出発点から、「存在」と「存在者」を区別するための言葉が欠けていたのだとも言える。


「存在」と「真理」とが、すべての知の営みに先立って、切り離しがたく結びついており、その縛りのなかでしか知は動くことができない―西洋の形而上学を成り立たせているこの基本形を、デカルトもまた、忠実になぞっているのである。


「人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ること」ができても、言語を用いて語り始める瞬間、もはや「共存在」をのがれるすべはないのだ…


われわれがふだん日常生活で言語を使うとき、それはほとんどつねに「反省以前」というかたちで理解されている。しかもそれでいて、そこには、われわれが世界をどういう風に理解しているか、あるいは…自己というものをどう理解しているか、ということが自ずとあらわされている。


(母語は)われわれがものごとを理解するあらゆる場面において、すでにそこに介入しており、言葉それ自体のもっている「わかり」の形に応じて、われわれの「わかること」を実現させている。
posted by baucafe at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | ◇読書